「東遷ドラマ・復元仮説」Ⅱ-『記・紀』再論15
前回からの続きで、「東遷ドラマ・復元仮説」の後半です。
◆「播磨王ミマツヒコ+三嶋鴨タケツノミ」が同盟する
さて前回では、【D】カモ族のタケツノミが摂津三嶋に侵入し、【C】アマノホアカリ系のニギハヤヒを攻撃して、奈良へ駆逐したことを見てきました。
カモ族はさらに奈良侵入を図ったが、これは土着の国栖勢(縄文人)に抵抗されて果たせません。国栖の族長ナガスネヒコが、ニギハヤヒの遺子ウマシマジを「天神の子」と尊んで、カモ族を防いだからです。おそらく国栖の抵抗は、奈良盆地の北西山地を利用したゲリラ戦であったでしょう。
そこで国栖の抵抗に手を焼いたタケツノミは、よそから「援軍」を呼び入れました。これが播磨国・飾磨の王ミマツヒコです。
すでに見てきたよう、ミマツヒコは、【A】出雲系イワ君+【B】吉備系サヨツヒメの婚姻同盟から生まれた子です。その出生からそうだったよう、彼の勢力は【A】に【B】が混じったもので、かつ西の【B】吉備族から強い圧力を受けていた。この吉備族の圧力に、ミマツヒコも苦しんでいたのでしょう。
そこでミマツヒコは、タケツノミの援軍要請を好機として、奈良東遷に乗り出しました。『記・紀』の干支年より復元すると、これは181年です。(★参照→「今編4・干支年表」)
◆予期せぬ侵入-奈良盆地陥落
こうして播磨王ミマツヒコとその王子タギシミミは、カモ族のシイネツヒコ(倭直氏の祖)に案内されて、大阪湾→大和川→生駒を越え、奈良西部へと侵入しました。
いっぽうナガスネヒコは、奈良北面(交野方面)でカモ族を防いでいたはずで、西からの侵入は予想外だったはずです。すなわち彼は不意を突かれて、敵の盆地侵入を許してしまった。
ナガスネヒコは慌ててこちらへ向かってきたが、そこでミマツヒコが「ニギハヤヒと同族」と知らされてショックを受けます。「天神の子が二人いるはずはない…」という彼の言葉は、その動揺を伝えるものだ。
この対立の決着は、なんと意外なかたちで起こりました。国栖たちが「天神の子」と頼んでいたウマシマジが、ナガスネヒコを殺害し、その手柄をみやげにしてミマツヒコに降伏してしまったのです。
◆ウマシマジ「裏切り」の理由
ではウマシマジがナガスネヒコを裏切った理由とは何でしょうか?
まず第一に、すでに奈良盆地に侵入されてしまった以上、もはや「防ぎようがなかった」ことが考えられます。侵入軍は鉄器で武装していたはずで、平地戦では国栖勢に勝ち目はなかった。
また第二に、国栖の間で「天神の子」として威信を誇っていたウマシマジには、もし国栖たちの眼前で降伏すればメンツがまる潰れになる-という恐怖があったと想像されます。どうせ降伏するしかないが、国栖たちに見下されるくらいならば、いっそ彼らを殺してしまおう…と。
また察するに、ウマシマジにとって、国栖との生活は居心地がよくなかったのかもしれません(彼は「煮た蛙」が嫌いだったのかも)。
「国栖とのハーフ」ということは、ウマシマジにとって劣等感だったことも考えられ、それが国栖への憎悪に転じた可能性もあるでしょう。
とまれこうして、ウマシマジはミマツヒコに降伏し、以後は国栖討伐の先頭に立つことになりました。これが物部氏の誕生です。
◆大王家+物部氏+葛城鴨氏
こう見ると、ミマツヒコ(=ミマキイリヒコ)の東遷は、カモ族によって企画・主導されたことがわかります。であればこのあと、葛城鴨氏が、大王家に匹敵する権威を誇ったのも当然です。
奈良に入ったミマキイリヒコは、鴨タケツノミ(=三島ミゾクヒ)の孫娘を妃としました。大王家=葛城鴨氏の「双頭体制」の成立です。おそらくこれが186年。
このようにして初期王権は、
①奈良東南部(磯城)の「盟主」大王家。
②北部(布留)の「親衛隊」物部氏。
③南西(葛城)の「実力者」鴨氏。
-の3族連合によって発足したと推定します。
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