2009年7月 9日 (木)

「東遷ドラマ・復元仮説」Ⅱ-『記・紀』再論15

 前回からの続きで、「東遷ドラマ・復元仮説」の後半です。

◆「播磨王ミマツヒコ+三嶋鴨タケツノミ」が同盟する
 さて前回では、【D】カモ族のタケツノミが摂津三嶋に侵入し、【C】アマノホアカリ系のニギハヤヒを攻撃して、奈良へ駆逐したことを見てきました。
 カモ族はさらに奈良侵入を図ったが、これは土着の国栖勢(縄文人)に抵抗されて果たせません。国栖の族長ナガスネヒコが、ニギハヤヒの遺子ウマシマジを「天神の子」と尊んで、カモ族を防いだからです。おそらく国栖の抵抗は、奈良盆地の北西山地を利用したゲリラ戦であったでしょう。
 そこで国栖の抵抗に手を焼いたタケツノミは、よそから「援軍」を呼び入れました。これが播磨国・飾磨の王ミマツヒコです。
 すでに見てきたよう、ミマツヒコは、【A】出雲系イワ君+【B】吉備系サヨツヒメの婚姻同盟から生まれた子です。その出生からそうだったよう、彼の勢力は【A】に【B】が混じったもので、かつ西の【B】吉備族から強い圧力を受けていた。この吉備族の圧力に、ミマツヒコも苦しんでいたのでしょう。
 そこでミマツヒコは、タケツノミの援軍要請を好機として、奈良東遷に乗り出しました。『記・紀』の干支年より復元すると、これは181年です。(★参照→「今編4・干支年表」

◆予期せぬ侵入-奈良盆地陥落
 こうして播磨王ミマツヒコとその王子タギシミミは、カモ族のシイネツヒコ(倭直氏の祖)に案内されて、大阪湾→大和川→生駒を越え、奈良西部へと侵入しました。
 いっぽうナガスネヒコは、奈良北面(交野方面)でカモ族を防いでいたはずで、西からの侵入は予想外だったはずです。すなわち彼は不意を突かれて、敵の盆地侵入を許してしまった。
 ナガスネヒコは慌ててこちらへ向かってきたが、そこでミマツヒコが「ニギハヤヒと同族」と知らされてショックを受けます。「天神の子が二人いるはずはない…」という彼の言葉は、その動揺を伝えるものだ。
 この対立の決着は、なんと意外なかたちで起こりました。国栖たちが「天神の子」と頼んでいたウマシマジが、ナガスネヒコを殺害し、その手柄をみやげにしてミマツヒコに降伏してしまったのです。

◆ウマシマジ「裏切り」の理由
 ではウマシマジがナガスネヒコを裏切った理由とは何でしょうか?
 まず第一に、すでに奈良盆地に侵入されてしまった以上、もはや「防ぎようがなかった」ことが考えられます。侵入軍は鉄器で武装していたはずで、平地戦では国栖勢に勝ち目はなかった。
 また第二に、国栖の間で「天神の子」として威信を誇っていたウマシマジには、もし国栖たちの眼前で降伏すればメンツがまる潰れになる-という恐怖があったと想像されます。どうせ降伏するしかないが、国栖たちに見下されるくらいならば、いっそ彼らを殺してしまおう…と。
 また察するに、ウマシマジにとって、国栖との生活は居心地がよくなかったのかもしれません(彼は「煮た蛙」が嫌いだったのかも)。
「国栖とのハーフ」ということは、ウマシマジにとって劣等感だったことも考えられ、それが国栖への憎悪に転じた可能性もあるでしょう。
 とまれこうして、ウマシマジはミマツヒコに降伏し、以後は国栖討伐の先頭に立つことになりました。これが物部氏の誕生です。

◆大王家+物部氏+葛城鴨氏
 こう見ると、ミマツヒコ(=ミマキイリヒコ)の東遷は、カモ族によって企画・主導されたことがわかります。であればこのあと、葛城鴨氏が、大王家に匹敵する権威を誇ったのも当然です。
 奈良に入ったミマキイリヒコは、鴨タケツノミ(=三島ミゾクヒ)の孫娘を妃としました。大王家=葛城鴨氏の「双頭体制」の成立です。おそらくこれが186年
 このようにして初期王権は、
①奈良東南部(磯城)の「盟主」大王家
②北部(布留)の「親衛隊」物部氏
③南西(葛城)の「実力者」鴨氏
 -の3族連合によって発足したと推定します。

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2009年7月 5日 (日)

「東遷ドラマ・復元仮説」Ⅰ-『記・紀』再論14

 さて今編のここまでで、以下の人々の「素性」を明らかにしてきました。
★第6回-播磨王ミマツヒコ(出雲系伊和君+吉備系サヨツヒメの子)。
★第7回-ニギハヤヒ(後着アマ族)とその子ウマシマジ(母はナガスネヒコの妹)。
★第8回-ナラの国栖ナガスネヒコ(先住縄文人)。
★第13回-カモ族祖・タケツノミ(馬韓系の新着海民)。

 ここから2回、彼らの動きをまとめて再構成してみます。
 これは★第9回の「民族移動地図」ならびに★第12回の「氏族系図」の解説にもなっているので、あわせてご覧ください。

◆1~2Cまでの多重渡来
 まず1C前半より、南韓→倭国へ【A】アマノホヒ集団の流入が始まりました。これは扶余族(ツングース系)だと思います。筑紫那津(博多)にナ国を建て、また出雲にも入植した。彼らは先着者であるがゆえに、「国魂の祭霊者」たる資格を得ました。
 ついで1C後半に、強烈な剣霊信仰を持つ【B】ヒボコ集団が渡ってきます。これは濊狛族(スキタイ化したツングース系)でしょう。戦闘力が旺盛で、筑紫を制してイト国を建て、さらに吉備へも侵入しました。

 2C前半には二つの動きが起こります。
 一つは播磨西部(佐用郡・宍粟郡)における【A】出雲系伊和族vs【B】吉備族の抗争です。両者は激しく争ったのち、いったん【A】イワ君+【B】サヨツヒメの婚姻同盟で停戦した。
 けれどものちに同盟は決裂して、【A】イワ君は播磨中部へ逐われました。このとき夫のイワ君は、サヨツヒメ腹の子を連れて逃れたと考えられ、この子がのちに飾磨(姫路)の王・ミマツヒコ(A+Bのハーフ)になった…と推定します。
 もう一つは、【C】アマノホアカリ集団の流入です。形質的には【A】と同族。彼らは新たなフロンティアを求めて、丹波・越から入植しました。海部氏-尾張氏らがこの系統です。
 このうち丹波宮津の【C】海部族は、じきに但馬出石(いずし)に侵入した【B】ヒボコ系と衝突したと考えられ、これから【B】ヒコイマス+【C】オケツヒメの婚姻同盟→のちに同盟破綻→【C】ヒコイマス勢がオケツヒメ勢を駆逐…という展開をたどったと思われます(つまり播磨で起こったのと同じ構図)。
 またこの婚姻から生まれた丹波ミチノウシ(B+Cのハーフ)は、たぶん大伴道臣と同一人物で、これが大伴氏の起源だと推定します。
 さてまた【C】系のニギハヤヒは、琵琶湖から淀川へ下って、河内の交野(かたの)を押さえました。彼はここで淀川水運を掌握して、奈良盆地の国栖(縄文人)とも交易したと思われます。奈良国栖の族長が、ナガスネヒコです。

◆「東遷」前史-鴨タケツノミvsニギハヤヒ・ナガスネヒコ
 2C後半に入ると、馬韓から【D】カモ族が渡ってきます。【A-C-D】は形質的にはみな同種です(ツングース系・扶余族)。ただし後から来た集団ほど、つよくスキタイ文化の影響を受けています。また【D】カモ族の特色として、「水軍」性と鳥霊信仰が挙げられます。
 さて【D】カモ族は、伊予大三島→紀伊名草と渡って来て、さらにその一部が摂津三嶋へ入りました。この一党の族長が、鴨氏祖のタケツノミです。海神オオヤマツミ、海神シオツチ、三島明神、三島ミゾクヒは、すべて彼の投影だと思います。
 ここで★第9回の地図をよく見てください。タケツノミの入植した摂津三嶋と、ニギハヤヒの拠る河内交野は、まさしく淀川を挟んだ対岸です。
 ここまで復元してみると、なぜニギハヤヒが交野を棄て奈良へ遷ったか?…が理解できる。すなわちニギハヤヒは、新着のタケツノミ勢に攻撃され、親交のある国栖ナガスネヒコのもとへ逃れたのだ。
 ナガスネヒコは、ニギハヤヒを「天神」として歓迎し、妹ミカシキヤヒメを彼の妻に与えました。
 ほどなくニギハヤヒは死亡し、ナガスネヒコは彼の遺子ウマシマジ(C+国栖のハーフ)を主君として奉じました。
 いっぽう交野を攻め取ったタケツノミは、さらに奈良へ侵入を図ったと思われます。だがナガスネヒコはこれを敵視し、国栖勢を率いて頑強に抵抗した。
 そこで手を焼いたタケツノミは、思い切った手段に出ました。すぐ手近にいる別の勢力、すなわち播磨王ミマツヒコを、奈良攻略の「同盟軍」として呼び寄せたのです。
 だいぶ長くなったので、続きは次回で。

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2009年7月 1日 (水)

「カモ族」とは何者か?-『記・紀』再論13

 今回は、古代の重要氏族・カモ族(鴨氏・賀茂氏)について考えます。
 鴨氏は古くから、大和葛城(奈良盆地西部)・山城葛野(京都市)らに根を張って栄えました。初期王権と深く関わる豪族です。また全国の「賀茂(鴨)神社」は無論のこと、「三島神社」とも縁が深い。さらに、これも重要氏族である大三輪氏(大神氏)は、鴨氏の同族(つまり分家)と伝わります。

◆鴨氏祖タケツノミ-「東遷」の先導者
 では以下の史料群を見てください。

①神武に、ニギハヤヒのナラ入りを通報し、かつ東遷を勧めたのは、「塩土の翁」であったという-[神武紀]。
②「塩土の翁」は海神である。その娘はトヨタマヒメとタマヨリヒメ-[神代下紀]。
鴨氏の祖タケツノミは、神武の東遷を手引きして葛城山を占め、のち山城国へ進出したという-[山城風土記・逸文]。
④タケツノミの娘タマヨリヒメは、丹塗り矢によって懐妊し、男子を産んだ。酒宴のとき、タケツノミがこの子に「父を示せ」と言うと、子は天に酒杯をささげて、たちまち雷神と化し昇天したという-[山城・逸文]。

 まず以上から、①②海神シオツチ=③④鴨氏祖タケツノミが二重の同一性で結ばれているのがわかります。すなわち①=③は「神武の先導者」という役どころが共通し、②=④は「娘タマヨリヒメ」が共通する。
 そこで『書紀』のいう「神武を先導した海神シオツチ」の正体は、鴨氏祖タケツノミであろう-と導けます。
 なお「東遷王・神武」の正体が、じつは「播磨王ミマツヒコ=王祖ミマキイリヒコ」であろうことは、すでに★今編6などで述べています。
 すなわち播磨王ミマツヒコは、鴨氏祖タケツノミに導かれて、ナガスネヒコとウマシマジの拠る奈良の攻略に向かったわけです。

◆百済渡来の「三嶋大神」
 では鴨氏は、いったいどこから来た何者でしょうか? 次に以下を見てください。

⑤伊予の大三島では、オオヤマツミ神を祀っており(大山祇神社)、別名をワタシ大神(渡海大神)という。この神は百済から渡ってきて、摂津三嶋に遷ったとする-[伊予・逸文]。
韓から渡来した「呉のスグリ」は、はじめ紀伊の名草に住み、その分かれが摂津三嶋の大田に遷ったという-[播磨・揖保郡]。
⑦摂津三嶋(大阪府高槻市)の「三嶋鴨神社」は、日本最古の三嶋社という。その祭神はオオヤマツミとコトシロヌシ-[同社伝]。

 まず⑤⑥を合わせると、
●馬韓(のち百済)→伊予大三島→紀伊名草→(分流)摂津三嶋

 と移動した集団の姿が浮かび上がります。そのシンボル(祖神)がオオヤマツミとコトシロヌシです。
 ここで⑦「三嶋鴨神社」の名に注目すれば、この渡来集団こそ「カモ族」と推定できます。
 ⑤は「百済渡来」というが、当時(たぶん2C半ば)は百済という国はまだないので、ここは「馬韓」と読み替えられます。また⑥でいう「呉=クレ」は、上田正昭氏によれば「句麗=クリ」の意で、つまり高句麗を指しています。高句麗-百済(馬韓)はともに扶余族の国であるから、カモ族のルーツもこれであることは明らかです。さらに-

⑧伊予・大三島の「大山祇神社」は、全国「三島神社」の元締めとされ、古くから「水軍の守護神」として敬われた。
⑨淀川沿いの摂津三嶋は、「倭の五王」時代には、最重要の軍港(津ノ江)だった。
⑩鴨氏の本拠・大和葛城にある「鴨都波(かもつば)神社」の祭神は、コトシロヌシ、シタテルヒメ、タケミナカタ。

 コトシロヌシが、⑦三嶋鴨の祭神=⑩葛城鴨氏の祭神であることを見てください。また⑧「水軍の守護神」と⑨「軍港三嶋」は、①②「海神シオツチ」とあわせて、この「三島-カモ」集団が強力な水軍勢力であったことを示唆します。

◆「三島ミゾクヒ」とは何者か?
 さらに次の記事を見てください。

⑪神武は奈良入りしたのちに、イスケヨリヒメを妃に迎えた。彼女の父は三輪山の大物主で、祖父は三島ミゾクヒという-[神武記]。
⑫神武は奈良入りしたのちに、イスズヒメを妃に迎えた。彼女の父はコトシロヌシで、祖父は三島ミゾクヒという-[神武紀]。
⑬崇神の妃の一人は、紀伊の荒河戸畔の娘という-[崇神紀]。
⑭神武東遷のとき、紀伊の名草戸畔は抵抗して殺されたという-[神武紀]。

「記⑪」と「紀⑫」を対照すれば、イスケヨリヒメ=イスズヒメが同一であり、その父である三輪山の大物主=鴨祭神のコトシロヌシも同一であることは明らかです。そして「三島ミゾクヒ」とは、摂津三島を占めた鴨タケツノミを指すと考えうる。
 また崇神についての⑬記事は、神武についての⑪⑫記事の別伝であるでしょう。
 なお⑭を視野に入れれば、紀伊のカモ族に「⑪~⑬ミマツヒコの同盟者」と「⑭敵対派」の分裂があったことが伺えます。はたして⑤記事に戻ってみると、ここには紀伊カモ族が「分かれた」と書いてあった。

 以上をまとめると、
●カモ族は、馬韓渡来の強力な水軍集団で、伊予の大三島→紀伊の名草へ渡ってきた。
●紀伊カモ族から、タケツノミの一党が分かれ出て、摂津三嶋を占め取った。
●三嶋の鴨タケツノミ一党は、播磨王ミマツヒコを呼び入れて奈良を攻略、葛城地方を占拠した。
●初国王となったミマツヒコは、鴨タケツノミ(=三島ミゾクヒ)の孫娘を妃とした。
●ミマツヒコとタケツノミは、紀伊のカモ分派(名草戸畔)を討伐した。

 -と復元できます。
 ここまでで、タケツノミ、ニギハヤヒとウマシマジ、ナガスネヒコ、ミマツヒコらの素性がすべて出揃いました。次回はこれをまとめてみます。

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2009年6月28日 (日)

夏は外房~海で遊べる・歴史で遊べる

 真夏日だった6.27、また外房へ礒遊びに出かけました。
 外房は海風のせいで涼しく、いつものことだけど、海に入ってシュノーケリングしていると凍えました。体がガタガタ震えてしまって、小一時間くらいしかもたなかった。

◆礒のヤドカリとかウミウシとか
 で…またヘンなものを見ちゃいました。ヤドカリたちの大ゲンカです。
Photo_7
 写真(左)でわかるでしょうか? 十匹近いヤドカリたちがガチャガチャと激しくもみ合い、とくに右下では組んずほぐれつの大乱戦。
 そのうちとうとう一匹が、貝殻を奪われてまる裸にひん剥かれてしまいました。右2枚はそいつが途方に暮れてるところです。破れ貝殻をむなしく引き寄せたりしてるのが、ヒサンだった。
 いつもヤドカリたちは「家不足」で、必死に取り合いしてるっていうけど、こんなロコツなのは初めて見ました。ヤドカリの世界もたいへん。

Photo_8
 2枚目はいろいろです。
 左上-ムカデミノウミウシが日光浴。色が涼しげできれいです。
 左下-たぶんウミウシ類のミスガイだと思います。ウミウシ類としては原始的で、まだ貝殻をしょっている。間近で見るとけっこう怖い。
 右上-クジメだと思います。カサゴの仲間です。
 右中-おなじみのキタマクラ。繁殖期で気の立ってる雄でしょうね。カメラをライバルだと思ったらしく、威嚇してきました。
 右下-礒の常連、ヘビギンポ。赤っぽいのでたぶん雌です。対して雄は黒っぽい。

◆上総と安房~「アマ族」の痕跡が今に遺る
 ところで東関東~福島は、古代の国造(くにのみやつこ)の乱立地です。なにしろ『先代旧時本紀・国造本紀』によれば、

上総国-6。安房国-1。下総国-2。
常陸国-7。石城国-4。石背国-6。

 と26人も密集している。じつに全数(133)の1/5です。これは古代の建国~開拓期に、この一帯で諸勢力が入り乱れたことを示しています。
 このうちとくに千葉県南端の安房国は、ここだけで「独立国」として扱われていることが目を引きます。なお気になることは-

「アワ」の地名は、四国の阿波(徳島県)と同じ。どちらも忌部氏にゆかりという。
●安房国「一宮」である安房神社&州崎神社(館山市)は、忌部祖神(天太玉命とその妃神)を祀る。
●富津市の佐貫町も、読みは「サヌキ」で、四国の讃岐と同じ。
●また富津市の天羽(あまは)、鴨川市の天津(あまつ)など、「アマ」名が目立つ。
●天津小湊の「天津神明宮」社は、今はアマテラスらを合祀するが、もとの祭神はコトシロヌシであったという(コトシロヌシは葛城の鴨氏の祭神で、よく三島明神とも同一視される)。
●鴨川市の北には三島湖(君津市)があり、三島神社もある(鴨&三島のセット!)。
●また君津~木更津あたりには、諏訪神社・八雲神社など、「敗れた出雲系」の痕跡が目立つ。

 今はいちいち解説せずに、注意を喚起するのみに留めておきます。
 最後に、いかにも古色ゆたかな君津「三島神社」の写真を掲げておきます。さびれて無人だったけど、荘厳な巨樹と性器信仰(左下)。いかにも「謎」のにおいプンプンです。
Photo_9

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2009年6月25日 (木)

「因数分解」を考えてみた

 ちょっと気分転換したいので、今回は「素人のムダな数学」です。
(なおプログでは乗数が書けないので、以下では「2乗=②」として表記します)

 僕はよくひま潰しに、「車のナンバーの因数分解」をやっています。
 2の倍数、5の倍数は、もちろん一目でわかります。
 3の倍数も、「各ケタの総和が3倍数」なので判定が簡単です。たとえば813は「8+1+3=12」ゆえにそうとわかる。同様に9倍数も、「各ケタの総和が9倍数」になっています。証明はmodで一発。
 4の倍数は、「下2ケタが4倍数」です。逆に言えば、「下2ケタが偶数だが4倍数ではない」場合、その数は「2×奇数」とわかります。
 11の倍数は、1221、781のようにカタチに特徴があり、多くは一目でわかります。これは分配法則からそうなるわけ。
 また333、777など「3ケタのゾロ目数」は、全て「3×37=111の倍数」です。
 以上はまったく初歩テクです。

 さてまた初歩テクの一つに、「平方数-平方数」を見抜いて判定する…というのがあります。
 たとえば1591は、ちょっと見には難しいけど、「1600-9」と気づけば、
 40②-3②=(40+3)(40-3)=43×37

 と簡単に分解できる。これはつまり、
 X②-Y②=(X+Y)(X-Y)
 って公式の利用です。これが決まると気分がいい。

 さて僕は、ここから「どんな数が平方差で構成できるだろう?」「その構成パターンは何通りあるだろう?」と考えてみました。
 まず奇数から考えます。すると「平方差で書ける」というのは、「非対称の因数積に書ける」というのと同じだから、以下の規則が導けます。

一)1以外の奇素数Pは、P×1から分配して、ただ1通りに構成できる。ただし1は構成できない。

二)奇素数Pのx乗は、
●乗数xが奇数なら→(x+1)/2通り。
●乗数xが偶数なら→ x/2通り。 

三)n種の奇素数(1は除く)からなる合成数で、因数に重複がない。
 P1×P2×P3×…×Pn。
●2の(n-1)乗通り。

四)2種の奇素数からなり、重複のある合成数。
 (P1のx乗)×(P2のy乗)
●乗数x、yが奇数を含むなら→(x+1)(y+1)/2通り。
●乗数x、yとも偶数なら→(x+xy+y)/2通り。

五)奇の合成数一般。
(P1のx乗)×(P2のy乗)×(P3のz乗)×…×(Pnのω乗)
●乗数が奇数を含むなら→
(x+1)(y+1)(z+1)…(ω+1)/2通り。
●乗数が全て偶数なら→
{(x+1)(y+1)(z+1)…(ω+1)-1}/2通り。

 なお上式(五の偶数式)は、全乗数和をΣとすれば、「xy…ωの対称式」を使って次のようにも表記できます。
(一次対称式+二次対称式+…+Σ次対称式)/2

 当然ながら、「五.奇数の一般式」は、一~四を包括した上位規則になっています。
 一~四は証明も簡単で、五式はそれを拡張して見つけました。ただし僕には五の証明が書けなかった。
 次に偶数では…。

六)「2×奇数」としか書けない偶の合成数。
●「平方差」で表せない。

七)2のa乗。
●aが奇数→(a-1)/2通り。
●aが偶数→a/2-1通り。

八)「2のa乗」×「奇数一般」。
(七式+1)×(五式)

 この六~八も、五式の部分を除けば、証明は簡単です。
 こう見ると、「平方差で構成できない数」とは、1と4,そして「2×奇数」となる全ての数(2,6,10…)です。それ以外は全て構成可能です。
 なお以上から、「ピタゴラス数は無限にある」のもわかります。

 それから以下のこともわかります。
●構成が2通りとなる最小数→15(=3×5)
●構成が3通りとなる最小数→45(=3②×5)
●構成が4通りとなる最小数→105(=3×5×7)
●構成が5通りとなる最小数→405(=3④×5)
●構成が6通りとなる最小数→675(=3③×5②)
●構成が7通りとなる最小数→3645(=3⑥×5)

「八式」は、全ての数を表しうる一般式です(奇数のときa=0)。するとここで、具体的なP1、P2…って数は無視して、全ての数を二種の情報で分類できます。
1)2の乗数(a)。
2)奇の素因数の乗数列(X1、X2、X3、…X∞)。

 ここで「奇の素因数がn個ある」という情報は、(2)のうちに取り込めるので省きました。たとえば「奇の素因数がn個」であれば、「Xn+1~=全て0」と置けばよいからです。
 以上はつまらないことかもしれないけど、思いついたので、書いてみました。
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2009年6月21日 (日)

〈忘れえぬロシア〉-トレチャコフ美術館展

 最近いろいろ立て込んでいて、歴史の続論を書く余裕がないので、今回は先月観てきた「トレチャコフ美術館展」のレビュー記事です。僕の好きなヴルーべリの作品がなかったのがやや残念だが、どれも名品揃いで、素晴らしい展覧会でした。

①左上-クラムスコイ「忘れえぬ女(ひと)」
②左下-ポレーノフ「モスクワの中庭」
③右上-レヴィタン「満開の林檎の木」
④右中-同「静かな修道院」
⑤右下-同「たそがれ-干し草」
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 ①は同展のポスターにも起用された逸品です。真冬の帝都を幌もおろさぬ馬車でゆく美貌の人。憂いを帯びたその眼差しは、半ば挑発するようで、よくよく見るとやや涙がにじんでいる。②も何げない都市の空き地に「美」を見出した有名な作品です。
 ③④⑤はすべてレヴィタンの風景画(この並びで年代順)。どれも詩情たっぷりで美しい。③は明るい春の喜び、④は夏の夕暮れの神秘性をとらえている。⑤では表現がぎりぎりの単純さまで削ぎ落とされ、和歌の「侘び」にも近いものを感じます。

⑥左-レーピン「息子ユーリーの肖像」
⑦右-セローフ「リョーリャ・デルヴィス」
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 レーピン-セローフ師弟の「子どもの肖像」を並べました。力強いリアリズム画家として知られるレーピンに、この繊細さがあることを、僕はこれで初めて知った。セローフも肖像画の名手であるが、子どもを描くと特によいです。

⑧ジュコフスキー「領主の館のテラスで」
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 実はこの絵をいちばん気に入ってしまいました。なつかしい音楽の流れているような、ノスタルジーをかき立てる情景です。遠くにみどりの光があふれ、それが濡れたよう天井や床板に反射して、室内の翳を切ない幸福感で満たしている。この絵の中に歩き行ってしまいたいという誘惑にかられました。

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2009年6月16日 (火)

古代氏族の成立系図(推定復元)-『記・紀』再論12

 前回での予告どおり、「古代氏族の成立系図」をアップします。
 画像が小さいが、クリック拡大して見てください。
 いちおう念押ししておきますが、これは僕の〈三重構造仮説〉によって整理したもので、通説とは相当に違ってます。この仮説では、たとえば神武=崇神は同一人、また景行=仲哀も同一人と見なされます(参照→★解論12)。

Photo_4
 以下にいくつかポイントを挙げておきます。

●ここでは日本人の起源として、次の6つのソースを推定しました。
①先住国栖(縄文人)
②先着アマ族-1C前半に渡来したツングース-辰韓系。氏祖アマノホヒ。
③先着サカ族-1C後半に渡来したスキタイ-濊狛系。氏祖アマノヒボコ。
④後着アマ族-2C前半に渡来したツングース-辰韓系。氏祖アマノホアカリ。
⑤カモ族-2C後半に渡来したツングース-馬韓系。氏祖タケツノミ。
⑥新着サカ族-3C前半に渡来したスキタイ-モンゴル系。氏祖サルオオミ。

●この系図は、スペース上の制約で、「枝」をかなり落としてあります。赤字の「氏族名」もあくまで目安で、この時代(1~4C)に「氏姓制度」が成立した-と言っているのではありません。また青字斜体は、各氏族・人物の「神話上の投影」をあらわします。

 以下のことを読み取ってください。
「アマ族+サカ族」の婚姻結合(②+③、また+⑥)が、王統の必須資格である。
●大王家に対して、⑤カモ族はキング・メーカー的な役割を果たしている。
●大王・王子らが得た妃は、それぞれの「後ろ盾」氏族をあらわす。たとえばワカタラシヒコとカグサカ王の後ろ盾は鴨氏であり、オシクマ王の後ろ盾は吉備氏・穂積氏である。
●『記・紀』のいう孝昭天皇(第五代・ミマツヒコカエシネ)とは、じつは播磨王ミマツヒコの分身である。
●『記・紀』のいう開化天皇(第八代・ヒコイマスの父)とは、じつは但馬出石を支配した「ヒボコ系の王」である。
●のちに継体大王を擁立した氏族は、ほとんどみな「⑥新着サカ族」の系統である。

 他にも言うべきことはあるけど、それはおいおい後述しましょう。

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2009年6月13日 (土)

古代氏族の血統原理-『記・紀』再論11

 前回からの続きです。

◆婚姻結合-「貴い血」をかけ合わせる
 まず一般論から入りましょう。
 前近代で、a集団とb集団が接触した状況を考えます。もしパワーの差が圧倒的なら(a≫b)、aがbを蹴散らしておしまいです。
 しかしそうでなかったら、両集団はなんとか「折り合い」をつけようとするでしょう。
 まずaがbを屈服させた場合(a>b)を考えます。この場合には、屈したb側から女子Bが差し出されて、a側の首長Aに嫁がされるのがふつうです。「女子の献上」によって忠誠を証す例は、古今東西いっぱいあります。
 次にaとbが対等かそれに近い場合(a≒b)を考えます。この場合にも、首長Aと首長Bの間で「婚姻同盟」をするのがふつうです。これも女子を嫁がせるとか、あるいは男子を入り婿させるかたちを取り、戦国時代など頻繁に行われた。もし首長のどちらかが女性ならば、首長Aと首長Bが直接に結婚するケースもあるでしょう(たとえばカスティーリャ王女とアラゴン王子の結婚によるスペイン統合)。
 このように見てくると、「婚姻結合」は、人類の行動パターンとして普遍的であるようです。

◆カムナツシヒメの血統は?
 そこで、古代の北九州です。
 ここではツングース系アマ族が1C前半に先着して、那津に「ナ国」を建てていた。そこへ1C後半に、濊狛系サカ族が新着して、糸島に「イト国」を築きました。両者の力関係は「イト国>ナ国」であったことが、前漢安帝への遣使記録から伺えます(108年)。
Photo_2 ここで脇道に脱線するけど、肥前松浦の「マツラ国」は、このとき「ナ国」から分立したのではないかと考えます。つまり糸島にサカ族の「イト国」が割り込んだため、アマ族は東の「ナ国」と西の「マツラ国」に分断された-という想定です。
 こうしてサカ族の「イト国」vsアマ族の「ナ国=マツラ国」が抗争するかたちとなり、この争乱はしばらく続いたと思われます。
 ところが2C末(180年頃)に、これらの国々は「邪馬台女王・ヒミコを共立した」と『倭人伝』はいう。その正体が、『景行紀』に見える「北九州の一国の魁師・カムナツシヒメ」であることは、すでに何度も書いてきました。
 そこで彼女の出身を考えます。手がかりは以下のとおり。

「北九州女王カムナツシヒメ=伊都の主イトデ=豊前岡の主ワニ」は同一視されている-[景行紀と仲哀紀→★解論38参照]。
「伊都県主は、高麗のウルサンに天降ったヒボコの子孫」という-[筑前風土記・逸文]。
カムナツシヒメの名は「神-那津-姫」である。彼女が「神」と呼ばれるのは、皇祖ゆえの敬称であろう。

 ①によれば、カムナツシヒメは「イトの血統」であるはずです。なお②は、その系祖がヒボコであることを語っている。
 だが③は、その同じ彼女が「ナ国育ち」であることを意味します。古代の王族名は、その養育された地名・氏族名にちなむのが原則だからです。
 これは矛盾しているようだが、じつはきれいな解があります。すなわち、

●イト国王+ナ国王女の「婚姻同盟」→ヤマト女王・カムナツシヒメ

 という想定です。弱いナ国側が王女を嫁がせ、その娘は母方実家(ナ国の那津)で育てられた-というのは、まさしくありそうなことではありませんか。
 そうとするなら、北九州ヤマト国(邪馬台国-最初の所在地は甘木あたり)とは、イト国とナ国(とマツラ国)が結合して新たに開拓した国だったと考えられます。

 じつはこうした「婚姻同盟」は、これまで他の所にも何回も登場してます。いま先着アマ族=A、先着サカ族=B、後着アマ族=Cとすると、

●Bイト国王+Aナ国王女 → カムナツシヒメ
●A播磨イワ君+B吉備サヨツヒメ → 播磨王ミマツヒコ
●Cニギハヤヒ+国栖ミカシキヤヒメ → ウマシマジ
●B但馬ヒコイマス+A丹波オケツヒメ → 丹波ミチノウシ

 …といったところ。のちの「ワカタラシヒコ+トヨ→ホムダワケ」もこの類例です。
 次回では、これらを系図にして整理します。

【追記】
 遠山美都男氏『古代の皇位継承』は、こうした「貴い血のかけ合わせ」が、皇統継承の原則であったことを説いており、勉強になります。ただ遠山氏はこの原則を「天智の発明」としているが、僕は上に書いたよう、この原則がずっと普遍的なものであると考えます。

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2009年6月10日 (水)

ヒボコとサカ族について再考-『記・紀』再論10

 すでに生理学・人類学の分野では、遺伝子型や生体計測値の解析から、「複数系統による数次の渡来」によって弥生~古墳人が形成されたことの物証を得ています。
 そこで僕は、この見方を歴史学の史料と突き合わせて、これまで建国仮説を組んできました。とりわけ弥生初期においては、ツングース系アマ族スキタイ系サカ族の対照は鮮やかであるよう思われます。
 ただ「サカ族」の定義については、あれこれ調べて考えるうち、当初と変わってきた部分があります。
 そこで今回、これを整理してまとめておきます。

◆「スキタイ化」していた濊狛族
 はじめ僕は、韓・倭へ到来したサカ族(スキタイ集団)の始めは、220年に出魏した「青州軍」だろう-と考えていました。
 ところが姜在彦氏の『歴史物語・朝鮮半島』によると、半島へスキタイ文化が及んだのはもっと早い時代であったらしい。同書によると、半島の東北部に展開した濊狛(わいはく)族は、「スキタイ化したツングース族」であったそうです。
 これからすると、すでに紀元前後には、スキタイ文化は半島へも及んでいたものと考えられます。

◆ヒボコ集団について
 そうすると気になるのが、強烈な「剣霊信仰」を持つアマノヒボコ集団です。ヒボコ集団については、次のような情報が存在します。

ヒボコは新羅渡来の王子といい、その渡来譚は「牛姫神話」によって語られる-[応神記]。
②伊都県主は、「高麗の国のオロ山(蔚山)に天降ったヒボコの子孫」という-[筑前風土記・逸文]。
ツヌガノアラシトが大加羅(伽耶北部の高霊国)より渡来したとき、穴門(長門)ではイツツヒコ(伊都都比古)が「この国の王」として誇っていた。アラシトは彼を嫌ってその地を逃れ、越前敦賀に渡ったという-[垂仁紀]。
播磨国にはアシハラシコオ(or伊和大神)が先着していた。そこへ西(吉備方面)から剣神ヒボコ(or採鉄神サヨツヒメ)が乗り込んできて、激しい「国占め」抗争をくり広げた。ヒボコは但馬の出石まで進出し、伊和族は播磨西部より駆逐されて播磨中部へ遷ったよう-[播磨国風土記]。

 まず①で、エウロペ型の「牛姫神話」を伴うことは、ヒボコがスキタイ系であることの傍証です。当時は新羅という国はまだないので、その出身は「辰韓」と読み替えられます。
 ②ではヒボコの出身国を「高麗」と言っているが、「蔚山=ウルサン」は辰韓の地名なので、やはりヒボコは辰韓系と見なしてよい。
 さてまた②によれば、北九州の「イト国」はヒボコ系の勢力です。そして③は、アラシトの渡来時には、その「イト国」が穴門まで支配していたことを伝えている。
 ここで『後漢書』を参照すると-

57年、倭のナ国(奴国)が、光武帝に朝貢した。
107年、「倭面土国王・帥升たち」が、安帝に朝貢した。

 ⑤には「金印」の物証もあり、1C半ばに那津(ナツ=博多)のナ国が北九州を制していたことは間違いない。
 いっぽう⑥の読みは問題です。いまこれを「倭のイト国王の帥升たち」と読んでおくと、次の二つの結論が導けます。

●2C初頭には、北九州の代表勢力はイト国に替わっていた。
●ただし「たち」とある以上、北九州にはイト国と競合する勢力(ナ国など)も並立していた。

 するとイト王族=ヒボコ系の渡来は、57~107年の間であり、つまりは1C後半と解されます。
 またそれと対立する③アラシト集団の渡来は、とうぜんそれ以降であり、おそらく2C前半であったはずだ。
 またヒボコ系の④吉備進出は、2C半ばと推定します。これから播磨に先着していたイワ君(出雲系)との対立抗争、吉備系サヨツヒメ+播磨イワ君の婚姻同盟~その破綻、2C後半のミマツヒコ東遷…とつなげれば、流れがたいへんスムースに理解できます。

◆ヒボコ系と青州軍の関係
 このように考えると、ヒボコ系は「1C後半の先着サカ族」で、いっぽう青州軍は「3C前半の後着サカ族」-と整理できそうに思われます。
 また出雲族は「1C前半の先着アマ族」と推定でき、北九州のナ国、それに播磨の伊和族も、この同族と見なしてよい。
 ここまで整理してみると、問題になってくるのがヤマト(邪馬台)国の女王・カムナツシヒメ(神夏礒媛)の位置づけです。『景行紀』また『仲哀紀』では、彼女は「イト県主」と同一視されている。ところが彼女の名であるナツ(那津)は、彼女がナ国で養育されたことを示唆します。古代の王族名は、その養育された地名・氏族名にちなむのがふつうだからです。
 となるといったいカムナツシヒメは、イト系(サカ族)なのか、ナ系(アマ族)なのか…?
 この結論は次回にて。

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2009年6月 2日 (火)

1-2世紀の「渡来地図」-『記・紀』再論9

 今回ちょっと脇道に入ります。
 いまやっている話では、飾磨(しかま)・出石(いずし)・交野(かたの)など、地名がたくさん出てきます。
 これらはとても重要なのだが、文章だけではわかりづらいので、略地図(試案)をつくってみました。1~2Cにおける近畿周辺の「4系統の移動図」です。クリック拡大して見てください。
Photo_2

 この地図には、まだ解説してない情報も描き込んであります(たとえばカモ族)。それについては後述します。
 また4系統の簡単な「一覧表」もつくってみました。
Photo_6

 以下に短く解説をつけてみます。

●出雲系アマ族
【出雲国・杵築】杵築大社(現・出雲大社)の所在地です。なお地名「杵築」は豊後の国東半島にもあり、出雲-豊国のつながりが伺えます。
【出雲国・意宇】-「おう」と読みます。出雲臣氏の居所であり、出雲国府や熊野大社の所在地です。
 なお熊野大神について一言…。中世の天皇家は、熊野大神を異常なまでに崇拝し、紀州熊野大社への上皇行幸は数十度に及びました。これは伊勢神宮が一度も行幸を受けなかったのと著しい対象をなしています。まるで「真の皇祖神は伊勢ではない、熊野なのだ」-と言わんばかりです。
 これほど天皇家から崇められた熊野大神の「正体」とは、「クマノオシクマ=オシクマ王」、すなわち敗北したアマ族王家のオシノワケ王子ではなかったか…と考えます。
参照→*オシクマ王の悲劇
【播磨国・宍粟】-「しさわ」と読みます。もと伊和君の本拠地で、伊和大神が祀られてます。のち伊和君は飾磨(しかま=姫路)へ遷ったらしく、姫路にも同系統の射楯兵主(いたてひょうず)神社があります。
参照→*播磨王ミマツヒコ

★ヒボコ系サカ族
【吉備国】-この一帯には、備前の吉備津彦神社(岡山市)、備中の吉備津神社(岡山市)、備後の吉備津彦神社(福山市)など、吉備族の痕跡が強烈です。
 製鉄で知られた吉備族と、播磨国に西から侵入した採鉄神サヨツヒメ=剣神ヒボコは同一視できるので、吉備族=ヒボコ系と見なしえます。
【淡路国・多賀】-イザナギ・イザナミを祀っており、「国生み神話」の舞台です。『垂仁紀』によれば、この淡路もヒボコ系に属したよう。
【但馬国・出石】-「いずし」と読みます。ヒボコの居着いた拠点とされ、出石神社は彼を祭神としています。
 なお『先代旧時本紀』は、但馬や因幡を、彦坐(ヒコイマス)王の子孫が治めている-としています。このことから、彦坐王=ヒボコ系と見なせます。
参照→*ツヌガノアラシトとアマノヒボコ

◆天火明系アマ族
【丹波国・宮津】-ここの籠(こもり)神社は、天火明トユケ女神(豊受大神)を祀っており、かつ「元伊勢」と呼ばれます。トユケ女神は食物神で、伊勢外宮の祭神です。
 ところで『古事記』の王統譜では、丹波オケツヒメという存在は重要です。彦坐王+オケツヒメの結婚から、ミチノウシはじめ多くの氏祖たちが生まれたとされているからです。
 このことは、「ヒボコ系サカ族」+「天火明系アマ族」の婚姻同盟を指しているのではないかと考えます。
 さらに『古事記』におけるオホゲツヒメ(食物女神)の殺害記事、また『丹後風土記・逸文』における天女の追放記事は、丹波オケツヒメの不幸な末路(結局サカ族に敗れて駆逐された)を暗示していると考えます。
【越前国・角鹿】-「つぬが」と読み、すなわち今の敦賀です。大加羅(伽耶北部)より渡来したアラシトがここに上陸したという。
 なお『旧時』によれば、ここの支配者は吉備系で、のちにヒボコ系が進出したものと考えられます。当地の気比(けひ)神宮も、もとは「きび」と読んだのではないでしょうか?
【美濃・尾張・伊勢】-美濃国不破の伊富岐(いぶき)神社、尾張一宮の真清田(ますみだ)神社らは、天火明が祭神です。
 また宮津「元伊勢」との関係から、伊勢神宮も本来この系列にあったことは明らかです。
 熱田大社は尾張氏の本拠です。ただし、サカ族特有の剣霊信仰(神体は草薙剣)や、イブキの神(=天火明)がその剣の英雄ヤマトタケルに祟っていることを見ると、その信仰はサカ族のものらしい。ここも宮津や角鹿と同様、のちにサカ族の進出を受けたのだと思います。

▼カモ族
【伊予・大三島】-全国の「三島神社」の元締め、大山祇(おおやまつみ)神社があります。オオヤマツミ神は、「海民のヤマ信仰」のシンボルで、別名は「渡し大神」、すなわち航海守護の神です。
 また『伊予風土記・逸文』には、この神が百済→伊予の大三島→摂津の三嶋と渡来したことが書かれています。
【紀伊・名草】-ここには日前(ひのくま)神宮があり、伊勢と並ぶ「別格社」とされています。
 なお『播磨国風土記・揖保郡』には、渡来の韓人→紀伊名草→摂津三嶋という移動が書かれています。
【摂津・三嶋】-現・大阪府高槻市です。「五王」時代には最重要の軍港(津ノ江)でした。その軍港の守護神が、三嶋鴨神社です。
【大和・葛城】-奈良県御所(ごせ)市には、高鴨神社、また事代主神を祀る鴨都波(かもつば)神社があり、鴨族の発祥地とされています。
 事代主神は三島明神とも同一視されているので、「三嶋の神=葛城の事代主=鴨氏祖」であることは明らかだと考えます。

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