*国造本紀

2009年8月28日 (金)

「国造本紀」ノート(おまけ)-ムサ人たちのスケッチ

 前回まで、「国造本紀」の解説に10回も使ってしまいました…。
 ところで★今編⑨では、ワニ氏の牙城「ムサ国」に触れました。
 ワニ氏は「和邇or和珥」と書き、大和国山辺郡(今の天理市和珥町)が本拠地とされています。
 いっぽうムサは、古代上総の「武社国」→のち「武射郡と山辺郡」→明治に合併して「千葉県山武郡」となっています。
 奈良・千葉の両所に「山辺」が共通することを見てください。また「武+射」という当て字は、ムサ人たちの特徴(騎射にすぐれた武人集団)を表しているようです。
 ところでこれも既述のとおり、千葉県山武郡芝山町の「芝山仁王尊・観音経寺」内には「はにわ博物館」があります。この同館を訪れれば、ムサ人(=和邇氏)たちのきわめて写実的な「埴輪像」と対面できるのです。
 同館は写真撮影が禁止なので、今回は、ここの埴輪を僕がスケッチしたものをお見せします。
Musa1_2

 山高帽とか長い顎髭が、はっきりとわかるでしょう。また男性の服にはチェック縞が入ってます。いずれも騎馬民族ふう(特に高句麗ふう)の特徴です。
 この埴輪形式は、ここから茨城県側へ広がっているというので、ムサ勢力が香取・鹿島を経て常陸へ北進したことが読み取れます。
 また女性の顔に朱塗りがあるのは、祭儀などの場でペイントを施したものらしい。

 ついでに「想像復元図」も描いてみました。ディテールや配色は適当にやったので、まあ参考ということで見てください。
Musa2

 同寺の「はにわ博物館」はほんとうに勉強になるので、興味のある方はぜひ実際に訪れてみてください。入館料は600円です。

(注-僕がお勧めするのは、あくまで「芝山仁王尊」というお寺の中にある博物館です。このすぐ隣に「町立・はにわ博物館」もあるのだけど、こっちは特にはお勧めしません。いかにもコドモ向けのつくりなので…)

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2009年8月25日 (火)

「国造本紀」ノート⑩-まとめと年表

 国造たちの系統を分類した★【地図2】解釈の6回目。今回はやり残しを片づけて、あと簡単にまとめてみます。

【S.隼人系】-2人
 大隅(θ15)国造は「隼人」と明記されています。また薩摩(θ16)は、本文には情報を欠いているが、やはり隼人系でしょう。

【*.新設国】-3国
 和泉(α4)、出羽(γ21)、美作(ζ4)は、8世紀の新設国ゆえ、国造分類から除外しました。(出羽は地図に収まらなかった)

【?.系統不明】-3人
 丹波(ε1)と種子島(θ20)は、リストに情報を欠いています。あるいは種子島は「新設国」と見なすべきかもしれません。
 また穴門(η18)は「桜井田部連の系統」とされているが、これをどう解釈すればいいのか、僕にはわかりませんでした。

◆130国造の集計表
 それでは「新設3国」を除外して、全130国造の集計を取ってみます。
Photo

 いま一度【地図2】をよく見れば、新着者(主に青系色)たちが次々に西から渡来し、先着者(赤色)を東国へ押し出したことが、見て取れるように思います。
 また上リストを見ればわかる通り、ここには大伴氏が欠けています。物部氏は11人、蘇我氏だって4人もいるのだから、このことは気になります。
 僕自身は、「系統不明」の丹波国造(ε1)は、おそらく大伴氏ではなかったか?…と推察しています。
 ただ仮にそうとしても、大伴系の国造は1人しかいないわけで、これは大伴氏の位置づけを考えるとき重要だと思います。

◆古代氏族の成立年表(試案)
 最後に、一応のまとめとして、「古代氏族の成立年表」を掲げておきます。クリック拡大して見てください。
 これもあくまで僕の試案で、通説とは大きく異なっていることをお断りしておきます。「★古代氏族の成立系図」「★記・紀干支年の整理表」も、あわせてご覧になってください。
Photo_2

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2009年8月21日 (金)

「国造本紀」ノート⑨-鴨系(Q)と和邇系(R)

 国造たちの系統を分類した★【地図2】を解釈する5回目です。

【Q1.鴨系】-3人
 まず鴨氏についての詳細は、「★カモ族とは何者か?」を見てください。そこでは彼らが馬韓からの渡来者で、摂津三嶋や大和葛城を拠点としたこと、また「鴨氏祖タケツノミ=三嶋ミゾクヒ」が同一人であることを述べました。
 以上から、次の3つは鴨系と見なしえます。
●吉備笠臣(ζ9)-これは「鴨系」と明記。
●土佐(η12)-「三嶋ミゾクヒの八世孫」。
●摂津(α5)-本文には情報がないが、摂津三嶋は鴨氏の拠点地。

【Q2.鴨-葛城系】-2人
 これもすでに述べたよう、僕は「Q2.鴨系の葛城氏」「N2.武内系の葛城氏」は別であると考えました。これから前者Q2には、大和葛城(α2)と筑前日田(θ8)を括りました。(★参照→「国造本紀④」
 ところで考古学によるなら、日田盆地には、5C中頃に朝廷の出先勢力が入植したとされています。同盆地の西にある月の岡古墳(福岡県うきは市)の勢力は、筑紫君(O)や肥君(F2)を制するため、朝廷が送り込んだものという。(参考文献-原島礼二氏『古代の王者と国造』p106~)
 Q2鴨系の日田国造は、まさしくこの出先勢力であったと考えます。

【Q3.鴨-倭直系】-3人
「神武東征の手引き人」シイネツヒコを祖とする系統です。大倭(α1)と明石(ζ3)のほか、越後の頸城(δ11)というのが目を引きます。
 既述のとおり、このシイネツヒコも鴨系だと思います。(★参照→「東遷ドラマⅡ」

 鴨系Qは、とくに畿内中央に集中していて、彼らが古代王権の「立役者」だったことが察せられます。

【R.和邇系】-4人
 リストに「和邇系」と明記されるのは、吉備の穴(ζ11)、近江の額田(γ2)、上総の武社(ムサ/β4)の3人です。
 とりわけムサは重要です。この地は今の千葉県山武町~芝山町で、約570基の古墳から、写実的な人物埴輪が大量に出ています。芝山仁王尊・観音経寺内の「はにわ博物館」では、彼ら和邇氏の実像を、まざまざと見ることができるのです。
 いま同館の説明から、要点だけ挙げておくと-

①ムサへの和邇氏の入植は、550年頃である。なお芝山町の宮門神社は、今もムサ初代の入植者・彦忍人(和邇氏祖の孫)を祀っている。
②ムサの埴輪は技術が高く、きわめて写実的である。これらには山高帽子、長い顎髭、大剣、甲冑馬など、「韓北系騎馬民族」の特徴がいちじるしい。
③かつてムサ郡12郷のうちには、巨麻(コマ)郷があった。
④ムサの人々は、703年から始まる高麗人・若光の秩父開拓にも、動員された形跡がある。(★参照→「関東古社めぐり②」
⑤ムサの地は、百済王氏と縁が深い。781年に観音経寺を設立した藤原継縄(つぐただ)の妻も、百済王氏の明信だった。なお百済王氏の氏寺・百済寺(大阪府交野市)の隣には、継縄の別荘があり、桓武帝もしばしば訪問したという。
⑥ムサに隣接する千田(ちだ)荘は、千葉氏(桓武平氏)の根拠地だった。千葉氏は騎射が巧みで、星辰(妙見)を信仰し、上野国多胡郡を治めた渡来氏族・羊氏とも関わりがあったという。

 ここでは④に基づいて、秩父国造(β17)も「和邇系」と見なしました。
 とくに③~⑤に注目すれば、和邇氏はモンゴル系(華北-新羅系)でなく、ツングース系(高句麗-百済系)だと思われます。
 また彼らが強力な騎馬軍事集団で、その武力と技術力が周囲を凌駕していたと見られることから、和邇氏はかなり新しい時期(5C頃)の渡来者であったと思われます。おそらく彼らは「五王時代」に、動乱の高句麗・百済から渡来した人々であったでしょう。

 このムサの騎馬武人たちは、東国における武者(ムサ)の発生や、剣霊を祀る鹿島神宮・香取神宮の成立、さらに両社を祭神とする中臣=藤原氏の発祥にも、ふかく関わったと思われます。

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2009年8月18日 (火)

「国造本紀」ノート⑧-ヒボコ系(L~M)とサカ族(N~P)

 国造たちの系統を分類した★【地図2】を解釈する3回目です。

【K.タカミムスビ系】-3人
 神話のタカミムスビとは、天孫族の祖父神で、【A】祖母神カミムスビと対になる存在です。
 この系統が、「渡来の玄関口」対馬(θ17)と、「女王の都」宇佐(θ4)にいるのは、おそらくとても重要です。
 すでに僕はここまでに、以下のことを復元してきました。

①「邪馬台女王ヒミコ」とは、『書紀・景行紀』に登場するカムナツシヒメ(神夏礒媛)である。(★参照→「邪馬台国④」
 その『景行紀』での女王カムナツシヒメ投降と、『仲哀紀』での伊都族祖イトデ投降は、瓜二つの重複記事になっている。このことから、
●景行=仲哀は同一人物である。
●女王カムナツシヒメ=伊都王族である。
 -と推定される。(★参照→「書紀解論38」
②『筑前風土記・逸文』は、伊都族を、「高麗国のオロ山に天下ったヒボコの子孫」という。とすれば女王カムナツシヒメは、ヒボコの子孫なのである。
③女王の名「神-ナツ-ヒメ」は、彼女が皇祖の一人であること、かつ那津(博多のナ国)で養育されたことを示している。
 漢からナ国が「倭奴国王」と認められたのはAD58年で、イト国が「倭面土国王」として認められたのは108年である。これから「ヒボコ系」イト王家は、1C後半に渡来して、先着ナ国を圧し破って繁栄したことがわかる。
④上の②と③より、次のことが推定できる。
●「ヒボコ系」のイト国王は、先着ナ国を圧伏し、おそらくその王女を差し出させて「婚姻同盟」を締結した。
イト国王+ナ国王女の婚姻から、女王カムナツシヒメが出生し、古代の慣習にしたがって母方のナ国で育てられた。(★参照→「古代氏族の血統原理」

 このように見ると、【K】祖父神タカミムスビとは、ヒボコ後裔のイト国王(またはヒボコ本人)を指すと見てよいでしょう。
 また彼と対になる【A】祖母神カミムスビは、既述したよう、ナ国王女を指しているのだと思います。(★参照→「国造本紀⑥」

【L.吉備系】-8人
 吉備に4人が密集し、ほか九州から東海まで散らばります。
『播磨国風土記』では、播磨西部に侵入した採鉄神サヨツヒメと、同じく西部へ侵入した剣神ヒボコが、重複する描写となっています。播磨の西部は「産鉄地」吉備であるから、
「ヒボコ系∋吉備族∋サヨツヒメ勢」
 と見なしてよいでしょう。(★参照→「播磨王ミマツヒコ」
 ちなみに近江の余呉湖や丹生谷も、「ヒボコが開拓した」と伝わります。この直近にはL系の敦賀(δ4)国造がいるので、この勢力が余呉湖らを拓いたのでしょう。(★参照→「江北・若狭④」

【M.ヒコイマス系】-6人
『記・紀』によれば、アマノヒボコが居着いた場所は、但馬の出石とされています。(★参照→「1~2世紀の渡来地図」
「国造本紀」では、この但馬(ε2)国造を、「ヒコイマス5世孫」としています。このことから、またまた「ヒコイマス=ヒボコ系」と推定します。
 近江額田(γ2)-美濃(γ3)-甲斐(β13)もこのM系で、これはヒボコ勢力の東進を意味していると考えます。

★以上L・K・Mは、「ヒボコ系」の3波を示していると解しました。人類学の用語を使えば、彼らは「スキタイ化したツングース系」=濊狛(わいはく)族だと思います。

【N1.武内-蘇我系】-4人
 この【N】には「武内宿禰系」を括りました。うち蘇我系と明記されるのは北陸に3人いて、また遠江素賀(そが/β9)もその名からこの組でしょう。蘇我氏の出自を考えるとき、重要な情報だと思います。
【N2.武内-葛城系】-1人
 武内宿禰の子・葛城襲津彦の系統が、三河穂(β6)に一人います。
【N3.武内-紀系】-2人
 周防都怒(つぬ/η17)と肥前葛津(ふじつ/θ19)です。
 都怒については、近江高島郡の津野神社と伝承が一致します。(★参照→「江北・若狭②」
 また葛津は、おそらく武内系の発祥地(倭国への第一入植地)だと思います。

【O.息長系】-1人
 筑紫米多(めた/θ2)に一人です。
 この地は高良山の麓のミネ郡にあたっており、景行遠征で標的とされた「水沼県主・サルオオミ」の本拠でした。このサルオオミとは、おそらくトヨと武内宿禰の実父です。
 であれば、米多を領するO息長氏は、N(武内系)同族と見られます。また息長氏の本拠は近江坂田郡とされているが、これは筑紫から東遷したものでしょう。

【P.三尾系】-2人
 近江高島郡に発祥した三尾氏が、北陸の加賀(δ5)と羽咋(δ9)を押さえています。
 O(息長氏・米多氏)とP(三尾氏)は、507年「継体擁立クーデター」の主役だったと見られています。であればOとPも同族です。
 ついでに「継体クーデター」についても一言だけ触れておくと、これは「サカ族が自前の大王を擁立しようとした」事件だと思います。ただこの試みはけっきょく挫折し、「アマ系」の欽明大王に倒されてしまいました(531、辛亥の変)。
 この話も、いずれ別回で論じようと思います。

★以上N・O・Pは、人類学の用語で言えば、「スキタイ=モンゴル系」だと思います。弥生人を構成する最大のクラスターです。(★参照→「日本人の起源・再考」

 また続きます。

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2009年8月14日 (金)

「国造本紀」ノート⑦-忌部(G)と阿部(H)と東国アマ族(I・J)

 国造たちの系統を分類した★【地図2】を解釈する2回目です。

【G.忌部系】-2人
「国造本紀」によれば、伊賀(β1)と伊勢(β2)がこの系統です。
 なお上とは一致しないが、忌部氏は出雲・阿波・大和・安房に多いそうで、これを「四ヶ国忌部」というそうです。
 僕自身は、関東古社めぐりをしていて、とりわけ安房-下総-常陸に忌部氏の痕跡を多く見つけました。それらの社伝をまとめると、
●四国阿波の忌部氏が、大移動して安房に入植、そこから関東内地へ拡散した。
●忌部氏は、養蚕や稲作らのもたらし手であった。
 -となるようです。
 いまは結論だけ書いておくと、忌部氏について、僕は次のように推定しています。

①忌部氏は「華中渡来の越族」である。華中種の蚕を用いた絹織技術と、オースロトネシア文化に起源を持つ稲作は、彼らによって倭国へもたらされた。
②忌部氏は、倭絹で神衣(こうぞ)を織り、稲穀を神に捧げ、また玉造(たまつくり=忌部氏の別名)を行う技術=祭祀集団だった。
③おそらく神功東征のとき、彼らは西国より駆逐され、黒潮沿いに東国へ大移動した。彼らの地位に取って代わったのは、「楽浪系」の技術=祭祀集団、中臣氏である。中臣氏が忌部氏をつよく敵視していたことは、『記・紀』の記述に反映している。

 この話は、また別回で詳しく書きます。

【H.阿部系】-6人
 北関東の筑波(β28)と那須(γ19)、北陸の若狭(δ1)と高志(δ2)、それに築紫(θ1)と壱岐(θ17)にもいます。
 これも結論を先に言えば、阿部氏とは、東国アマ族が「仁徳クーデター」によって逆襲した勢力だと思います。
 阿部氏の祖・オホヒコ(大彦)が、神功&武内宿禰を敵視する異伝【Le2】の主人公であった-というのが、彼らの素性を解く鍵です。(★→参照「解論13」
 この話も、いずれまた別回で扱います。

【I.天津湯彦系】-10人
 その名からして「アマ族」です。発祥地は安芸(ζ13)らしいが、分布が目立つのは白河(γ16)以北、開拓最前線の辺境です。
 なお「アマツ・ユヒコ」というこの名前は、越後開拓のシンボル・弥彦山とも関係がありそうです。同社の祭神は天香具山命です。

【J.天津彦根系】-11人
 これも明らかに「アマ族」で、東関東に目立っています。この系統については、次のことが注目されます。

①発祥地は茨城(β29)らしく、6人までが「茨城国造・タケコロ命の子」という。
 なお茨城国造について見ると、その名は「築紫トネ」であり、これはタケコロ命の別名かもしれないが、はっきりしない。「タケコロ命」の名は、石城(γ18)国造として見えている。また「タケコロ命」は、『常陸国風土記』の征服者「クロサカ命」と関係があるかもしれない。
②「天津彦根系-タケコロの子」のうちには岐閉(きへ/γ9)国造が含まれる。いっぽう出雲系Beの武蔵(β16)国造・エタモヒは「岐閉国造の祖先」という。
③茨城(β29)国造の名「築紫トネ」、また岐閉(γ9)国造の名「宇佐ヒトネ」は、おそらくこの系統が北九州からやって来たことを示している。

 IとJの解釈は、最も難しいものです。ただその後の歴史とも考え合わせて、次のような想定ができそうに思われます。

【I】-安芸から東国へ逐われたアマ族で、おそらくH阿部氏と同系。のちの「奥六郡の王者・安倍氏」
【J】-「北九州-武蔵-茨城」とつながる勢力。東遷王族F2-F3と、武蔵系の物部氏Beが結合したもの? のちの「東国の武門・秀郷流藤原氏」

 また続きます。

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2009年8月13日 (木)

「国造本紀」ノート⑥-アマ族(A~E)と大王家(F)

 ここからは、今編⑤でアップした【地図2-国造・系統一覧】の解釈をやってみます。

【A.カミムスビ系】-8人
 瀬戸内まわりに5人いるほか、山陰西辺や天草(θ13)にもいます。
 この組には、「10世孫」とか「13世孫」とか、氏祖カミムスビから世代数が離れている者が多くいます。これからすると、カミムスビはずいぶん昔の存在です。
 このうち最も氏祖カミムスビに近いのは、「5世孫」紀国造(η3)で、彼がこの組の代表であるようです。
 さて神話上のカミムスビとは、「天孫族の祖母神」です。またこの組には、アマクサ(θ13天草)やアム(ζ19阿武)が含まれます。
 以上のことから、この組は「先着アマ族」の血筋ではないか…と思います。また祖母神カミムスビの原像としては、北九州の「ナ国王女」を推定します。この「ナ国王女」とは、僕の見立てでは、邪馬台女王カムナツシヒメの母親です。
★参照→「古代氏族の血統原理」

【B.出雲系】-15人
 最大の派閥です。僕の見立てでは、この組も「先着アマ族」。そのうちとくに出雲にルーツを持つ系統です。
★参照→「1~2世紀の渡来地図」
 山陰に出雲(ζ6)など3人いるほか、関東に10人もいるのが目を引きます。豊前の豊(θ3)、伊勢神宮のある志摩(β3)を押さえているのも重要です。
 なおBeエタモヒ系(5人)とBmミツロギ系(5人)はサブグループにしてあります。エタモヒは武蔵国造(β16)です。またミツロギは新治国造(β27)の父親です。出雲→関東のつながりがとても強いことがわかります。

【C.物部系】-11人
 こちらも大所帯。Cb出雲大臣系(2人)・Ci伊香色雄系(5人)・Co大新川系(2人)をサブグループにまとめました。Cb「出雲大臣系」の存在から、この組がB出雲系と近縁であることがわかります。
 なおCi「伊香氏」は、近江国伊香郡が発祥地です。ただしここでは畿内には分布せず、常陸の久慈(β31)から肥前の松津(θ9)にまで散っています。
 またCo「大新川」とは、実のところ「おにゅう川」の当て字ではないか…と思います。すると彼らの発祥地は、若狭国遠敷(おにゅう)郡あたりのはず。ただしこれも畿内には分布せず、いるのは伊予国小市(η9おち=大三島)と駿河(β10)です。
★参照→「江北~若狭の古社めぐり③」

【D.穂積系】-1人
 ニギハヤヒ後裔で、C物部の同族です。リストには肥前松浦(θ10)の一人だけです。
【E.尾張系】-2人
 アマノホアカリ後裔で、C物部の縁族です。尾張(β4)と飛騨(γ5)の二国にいます。

【F1.ミマツヒコ系】-3人
 Fには王族系をまとめました。このうちミマツヒコの系統が3人いて、これも重要な情報です。(★→参照「播磨王ミマツヒコ」
【F2.カムヤイミミ系】-7人
 いわゆる「多氏」。九州中部に3人いるのは、「景行の九州遠征」時の入植でしょうか。信濃や東国にも散っています。
 なお常陸那珂(β30)を治めるタケカシマ命も、このF2多氏系に属していることは、注目されます。
【F3.トヨキ-ヒコサシマ系】-7人
 ヒコサシマはたいへん重要な人物で、上毛野(γ6)ならびに能登(δ8)の国造とされています。またその系統は主に北陸道・東山道に分布します。(★→参照「応神朝と東国の脅威」
【F4.景行系】-3人
「大征服者」景行の系統です。この王家の出身地と思われる播磨(ζ1)と、九州遠征の拠点・日向(θ14)を押さえていることが目を引きます。

 続きます。

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2009年8月10日 (月)

「国造本紀」ノート⑤-「系統別」の一覧図

 前回での予告どおり、【地図2-国造・系統一覧】をアップします。画像が小さいが、クリック拡大して見てください。何度も試行錯誤して、ようやくまとめ上げた労作です。ぜひ★今編②の【地図1-国造・全分布図】と照合して見てください。古代氏族の成立を考えるとき、とても役に立つデータではないかと思います。
2

 またこの作業に用いた「系統別の整理表」も、参考のためアップしておきます。

【A.カミムスビ系】、【B.出雲系】
*おそらく「先着アマ族」グループ。
Page001

【C.物部系】、【D.穂積系】、【E.尾張系】
*すべて「アマノホアカリ系」。
P2

【F1.ミマツヒコ系】、【F2.カムヤイミミ系(多氏)】
【F3.トヨキ~ヒコサシマ系】、【F4.景行系】
*F1~4はすべて「大王家後裔」。
P3

【G.忌部系】、【H.阿部系】
【I.天津湯彦系】、【J.天津彦根系】
*もっとも解釈の難しいグループ。
Page003

【K.タカミムスビ系】、【L.吉備系】、【M.ヒコイマス系】
*おそらくすべて「アマノヒボコ系」。
P5_2

【N1.武内-蘇我系】、【N2.武内-葛城系】、【N3.武内-紀系】
【O.息長系】、【P.三尾系】
*N-O-Pは同じ「スキタイ=モンゴル系」で、僕の用語で言えば「サカ族」。
P6

【Q1.鴨系】、【Q2.鴨-葛城系】、【Q3.鴨-倭直系】、【R-和邇系】
*Qは「2Cの百済系」で、Rはおそらく「5Cの高句麗-百済系」。
P7

【S.隼人系】、【?.系統不明】、【*.新設国】
P8

 次回からは、この【地図2】ついて、僕の解釈をなるべく簡単にまとめてみます。

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2009年8月 8日 (土)

「国造本紀」ノート④-「系統別」に整理する

「国造本紀」の4回目です。
 この回では、前回示した「一覧表」を僕がどうやって整理したか、説明します。
 ただし全てを解説すると、ものすごい分量になってしまい、一回や二回の記事では収まりがつきません。
 そこで、作業の一部分だけ、例として書いておきます。

◆例1-「武内宿禰系氏族」について
 まずは蘇我氏に注目します。リストに「蘇我系」と明記されるのは3人います。北陸の【δ3三国・δ7江沼・δ10伊弥頭(いみず)】です。
 また遠江の【α9素賀(そが)】は、リストでは系統がわからないが、その名前から蘇我系だろう-と推定します。すると蘇我系は全4人で、これを一つに括ります。
 ところで蘇我氏は、いわゆる「武内宿禰系氏族」の一つです。リストには、他にこの仲間とわかるのが3人います。
【β6穂】-武内宿禰の子・葛城襲津彦の四世孫。
【ζ17都怒(つぬ)】-紀臣と同祖。
【θ19葛津(ふじつ)】-紀直と同祖。

【β6穂】は、まさしく「武内系葛城氏」です。
 いっぽう【ζ17都怒】は、近江津野(つの)神社の社伝と考え合わせれば、「武内系紀氏」と確定できます。この社伝によれば、同社はもと「武内宿禰の子の紀角宿禰」を祀ったものであり、創建者は「紀角宿禰の孫の田鳥宿禰=周防国の国造」だったとされるからです。【都怒】はたしかに周防国内に所在します。このように、「国造本紀」と古社伝承がよく一致することを見てください。
★参照→「近江・湖北の古社めぐり②」
 また【θ19葛津】は、武内系(サカ族)の本拠と目される肥前国にあることから、やはり「武内系紀氏」と見なします。
 以上の蘇我・葛城・紀氏らは、みな「武内系」として並列します。

 ただし…葛城氏(ほかに2人いる)には注意が必要です。それというのは、葛城氏には異なった2系統がある-と思われるからです。すなわち、

1)鴨系の葛城氏-鴨氏祖タケツノミの勢力。2C末の崇神(ミマキイリヒコ)王権の立役者。神功東征では敗れて「負け組」となった。
2)武内系の葛城氏-武内宿禰の子・葛城襲津彦の勢力。3C半ばに神功東征によって奈良入りし、「勝ち組」として葛城入りした。

 のこる葛城氏の2人、【α2葛城・θ6比多】については、「武内-襲津彦系」とは書かれていません。そこで、判断の難しいところであるが、この2人はいちおう「鴨系の葛城氏」として別に分けます。

 類似の事情が紀氏にもあります。たとえば【ζ7石見】は「紀伊国造の同祖」とされているが、その【η1紀】国造は「神魂系」とされています。そこでこれらは「武内系紀氏」とは見なさずに、「神魂系」グループに括ります。

◆例2-物部系と出雲系
 もう一つ例を挙げます。リストにとても多い物部氏の分類です。
 まず「物部系」と明記されているのは、全部で10人います。また【η2熊野】国造は、「ニギハヤヒ系の大阿斗宿禰」とされており、阿刀氏=物部系ゆえ、これも加えると11人です。
 この「物部系」の中には、「出雲大臣系」が2人、「大新川命系」が2人、「伊香色雄系」が5人います。そこでこれらはサブグループに分類します。
 物部氏の中に「出雲大臣系」がいる-というのは、とても面白いことです。このことは、物部氏と出雲系が近縁であることを意味します。そこで両者を近いグループに並列します。
 さてリストには「出雲系」が15人もいて、これは最大派閥です。このうちには【β16武蔵】の国造である兄多毛比(エタモヒ)の系統が5人います。これはサブグループに括ります。
 また弥都侶岐(ミツロギ)系も3人います。さらにミツロギ系の一つ、【β24安房】は、【β21夷隅】また【θ3豊】と系統が同じという。そこで【夷隅】と【豊】も加えると、ミツロギ系は5人になります。

 また「穂積氏」も物部系とされるので、これも近いグループに。
 また出雲系と「尾張氏」は、ともに天穂日命の子孫というので、これも近いグループに並列します。

 以上のような考察を、全国造に適用して、僕はこれらの系統を整理しました。上に見たようやや荒っぽいところがあるが、ベストは尽くしたつもりです。

 いよいよ次回では、これらの作業によって完成した「系統別地図」をアップします。

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2009年8月 5日 (水)

「国造本紀」ノート③-国造データ一覧

「国造本紀」の3回目です。

◆「系統別」の整理手順
 すでに述べてきたとおり、「国造本紀」は国造の一覧リストです。ここには国造たちの名前と所在、さらにそれぞれの属する血統までが、ずらりと列記されています。
 そこで僕は、まず全国造を「一覧表」に書き出して、次にそれを「系統別」に整理する作業をやってみました。
 今回は、僕の作業手順を明らかにしておくため、はじめにつくった「一覧表」を掲げておきます。ブログでは画像が小さくて困るのだが、クリック拡大して見てください。

◆いくつかの注意点
 いくつか注意点を挙げておきます。
 設立時のうち「☆」マークは、その国造が第13代・成務代に定められた-とされるものです。これはたいへん数が多く(総数63)、全数の五割を超えます。
 ただしこの記述は、『書紀』の「成務代に諸国の国造が定められた」という記事によったものと考えられ、それほど大きな意味はないかもしれません。
 むしろ情報価値があるのは、「成務以外」についてです。これらは何らかの特殊な事情を反映している可能性があるからです。
 また「α5山城=山背」と、「β16无邪志=胸刺」は、同一国の二重記載となっています。
「系統」欄では、「天津彦根」は「天根」として、「天津湯彦」は「天湯」として、略記しました。
 また「神皇産霊命・神魂命・神祝命」などは、すべて「神魂=カミムスビ」と見なしました。
 同様に「高皇産霊命・高魂命」らも「高魂=タカミムスビ」と見なしました。

 この系統整理はかなり込み入った作業でした。これについての僕の解釈は、次回以降で示しますが、じゅうぶんに自信を持っているわけではありません。
 興味があっておヒマな方は、このデータ、または「国造本紀」本文にもとづいて、整理にチャレンジしてみてはどうでしょうか?
(なお以下では、考えるところがあって、ギリシア文字を分類に使いました)

【α】アルファ=畿内、【β】ベータ=東海道
Page001

【γ】ガンマ=東山道、【δ】デルタ=北陸道
Page002

【ε】イプシロン=山陰道、【ζ】ゼータ=山陽道
Page003

【η】イータ=南海道、【θ】シータ=西海道(九州)
Page004

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2009年8月 3日 (月)

「国造本紀」ノート②-国造の分布地図

 前回からの続きで、「国造本紀」を扱います。
 まずは【地図1-国造・全分布図】をアップします。ポップアップが小さいが、クリック拡大して見てください。

Photo_3

 この【地図1】は、「国造本紀」をよりどころに、古代の郡名・旧国衙・現存地名などを勘案して作成しました。作成にはかなりの時間を要しました。
 なぜか「国造本紀」には、同一国の二重記載が2つありました(α5山城=山背、β16无邪志=胸刺)。
 また位置不明が3つありました(γ11思、δ6加宜、θ9松津)。
 ほかにも位置の正確さに自信のないのが、いくつかあります。訂正すべき部分があれば、ご教示をいただければ幸いです。

 ともあれ、上の【地図1】で、「国造分布」の大ざっぱな像はつかめそうです。

 まずマップを見て気づくのは、国造たちの分布密度に大きな偏りがあることです。
「北九州-瀬戸内-畿内-東海-関東」には、国造がとても多く乱立しているのがわかります。とりわけ瀬戸内沿岸(特に吉備地方)と、東関東~福島あたりは、密集ぶりがいちじるしい。
 おそらくこれらの密集地帯では、建国~開拓期に、諸勢力が激しくせめぎ合って抗争したのだと思います。
 逆に山陰や中部では、「一国に1,2の国造」しかいないところが目立ちます。これらの地域の勢力は、わりあい安定していたのでしょう。

 いま一つだけ注目点を挙げておきます。北陸道の開拓は、「δ12深江-13佐渡」が終点で、今の新潟市まで届いていません。
 この開拓の北限あたりに位置するのが、ふるくから「越後開拓のシンボル」とされた弥彦山、そして禰彦(いやひこ)神社です。
 禰彦の祭神は、天香山命(アマノカグヤマ命)とされ、未開であったこの地を開いて、稲作や製塩をもたらしたと伝わります。
 このことから、「国造本紀」と禰彦神社は、越後開拓についてほぼ同時期の記憶を伝えているのだろう、と察せられます。

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