2008/03/02

『書紀解論』のまとめと目次

『書紀』を軸に、日本古代史の解明に挑んだ当シリーズ。なんとも長々と引っ張ってしまいました…。
 まだ書き残しもあるけれど、いったんここらで「上がり」にします。
 今回はシリーズ目次を示しておきます。手っ取り早く当説の概要を見たい方は、まず(十二)の表1を見てください。

◆第Ⅰ部-景行の死後動乱
「天孫降臨」神話の謎を、「神功東征」史実の書き替えとして解読しました。なお当説の背景については、「★邪馬台国④」も見てください。

★一)仮説【ヤマト創世記】
★二)仮説【ヤマト創世記】Ⅱ
★三)分解された「景行」伝承
★四)【天孫降臨】は【神功東征】の異伝である
★五)武内宿禰・長命の謎
★六)天孫「先遣失敗」の謎
★七)スサノオVSアマテラスの「誓い比べ」
★八)アマノオシホミミの妃は何者か?
★九)出雲で背命したのは誰か?
★十)出雲臣氏の「正体」は?

◆第Ⅱ部-3極による継承戦争
 当シリーズの真髄と言うべきパートです。とりわけこの前半部は、よく説得力を持って書けていると思います。

★十二)『書紀』構造はこんなにも重複している
★十三)「神功=神武=吾田媛」の同一性
★十四)神功惨敗!
★十五)「オシクマ王」の悲劇
★十六)応神朝と「東国の脅威」
★十七)迷いながら考える
★十八)武内宿禰について考える

◆第Ⅲ部-応神から仁徳へ
 このパートは、史料上の限界があり、推測が多くなりました。

★十九)『崇神紀』から応神朝伝承を解読する
★二十)王は祟られアマテラスは追放され
★二十一)崩れゆく「応神朝」
二十二)応神の出自疑惑
★二十三)応神の出自疑惑Ⅱ
★二十四)『書紀』にはトヨが11人いる!
★二十五)仁徳のクーデター
★二十六)仁徳クーデターと【原伝承P】

◆第Ⅳ部-『紀・記』総論
 ここでは古代史の全体像に挑みました。Ⅰ~Ⅲ史料の考証です。

★二十七)『日本書紀』の制作秘密
★二十八)『風土記』から見る古代の王名
★二十九)『風土記』の人気王ランキング
★三十)『風土記』伝説量の偏りは何を意味する?
★三十二)『書紀』に操作の痕跡を見る
★三十三)『書紀』と『古事記』を考える
★三十四)ヤマトタケル伝説を解体する
★三十五)ヤマトタケル伝説を解体するⅡ

◆第Ⅴ部-「日本史」の外側へ
 ここは視界を「外部」へ拡大した応用編です。「★古代日本の起源論」も関連記事として見てください。

★三十六)ツヌガノアラシトとアマノヒボコ
★三十七)ツヌガノアラシトと「東征記憶」
★三十八)アマノヒボコと「筑紫イト国」
★三十九)「日向の妃」の謎を解く
★四十)「日向の妃」とエウロペ神話
★四十一)『風土記』ノート①
★四十二)『風土記』ノート②
★四十三)『風土記』ノート③

 あと最後にちょっとだけ。
 古代日本の起源について、僕はもとから【多系統の混成】説を支持していました。基本的には、今もそうです。
 だが『記・紀』や『風土記』らの文献資料を見る限りは、「北方系」の要素が強いことは疑えない。これは文献を遺した支配層が、主に「北方系」であったためではないか-と考えます。
「北方系」を重視すると、結果としては【騎馬民族説】に近くなります。
 ちなみに【騎馬民族説】を提唱した江上波夫氏は、初期にはストレートに「騎馬軍勢の大征服」を想定したらしいが、後には「南韓での民族混合」を重視する姿勢になったらしい。そうすると、修正された江上説は【多系統の混成】説に近づきます。
 結局、両説は、異なったルートから同じ山頂を目指している試みなのかもしれません。
(*第11回と第31回は、削ったので欠番となりました)

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2008/02/28

『風土記』ノート③-書紀解論(四十三)

『風土記』註解の3回目。今回の主題は「古神話」です。
 ここには一部を並べただけだが、北方系やら南方系やら、さまざまな古代信仰が入り組んでいるのが見て取れます。ほんとに『風土記』は宝の山です。


【播磨国・飾磨郡・伊和】-オオナムチが、子ホノアカリの乱暴に悩んで、彼を泉に棄てて舟で逃げた。ホノアカリは父を怨み、風波を起こして父を溺れさせようとした。【出雲国・大原郡・海潮】にも類話がある。
「子を棄てて舟で逃げる→怨んだ子が海から追跡」というこの話型は、シベリア=エスキモー神話に頻出する。有名なセドナ神話もそうである。
 この背景には、口減らしのための「子棄て」習俗が考え得る。親たちは棄て子の怨霊に追われるのを恐れたのである。

【播磨国・讃容郡】-夫婦の「大神」が国占め争いをしたとき、タマツヒメ(サヨツヒメ)は鹿の血で稲を撒いて、一夜で苗を生えさせた。
【播磨国・賀毛郡・雲潤】-「太水の神」は、獣の血によって田を耕作したという。
「血で収穫」の神話は、南方アジアに数多い。生贄を伴った原始農耕文化であろう。

【肥前・佐嘉郡】-ここには楠の巨樹があり、ヤマトタケルが見て「サカの国」と名付けた。
★『景行紀』にもこれの並行記事がある。巨樹伝説は『風土記』の各所に頻出し、北欧~シベリアにかけて分布する世界樹神話の系譜に属する。ちなみに「サカ」はスキタイ族の自称名。

【播磨・逸文】-明石の御井に「大楠」が生え、その巨木から舟を造った。舟は飛ぶようで「速鳥」と名付けられ、毎朝、都へ井の水を急送した。
「泉-大樹-舟-鳥」という信仰連合の典型話。『応神紀』また【伊豆・逸文】【相模・逸文】にも類話がある。

【摂津・逸文】-ミマナとは、「ミ」御+「マナ」魚の意味という。
【丹後・逸文】-マナの井で八人の天女が水浴した。老夫婦が一人の羽衣を隠し、天女を養女にして酒づくりをさせた。【近江・逸文】【駿河・逸文】にも類話あり。
【常陸・香島郡】-天と地を、白鳥=乙女が往き来した。
【常陸・久慈郡】-長幡部の祖が、人に見られぬよう、闇の中で「烏つ機」を織ったという。
「泉-鳥-乙女-羽衣」の信仰連合。「マナ=魚」や「酒=サカ」は渡来系神話の頻出語素である。なお「白鳥女房」の類話は、シベリア=スキタイ文化にいっぱいある。また「人に見られぬよう機織り」と鳥霊信仰が結びつくと、ごぞんじ「鶴の恩返し」になる。

【山城・逸文】-秦氏の祖は豊かであり、餅を的にして弓を射た。すると餅は白鳥と化し、山の峰に飛び去って「イネナリ」化した。のちに秦氏は神に詫び、これを「イナリ」社として祀った。
★秦氏による「稲荷社」創始の起源譚。もともと稲荷信仰が、稲霊=鳥霊の結合であったことを示している。【豊後・逸文】にもこの類話があり、秦氏の豊国起源を伺わせる。
 なお秦氏が創建に関わったとされる神社は、「稲荷社・八幡社・日吉社・松尾社」などで、この4系統の神社数を合わせただけで、日本神社の過半に達する。影響力は絶大である。

【常陸・多可郡】-ヤマトタケルは野で狩りし、橘妃は海へ出て、獲物を取り比べた。海へ出た橘妃が勝ったという。
「山の男/海の妻」の競争する古神話。かの「海幸・山幸」の原話であり、類話は朝鮮・江南にもある。また北欧神話にも以下の類話。
山の巨人族の娘・スカジは、はじめ神々と敵対していた。のち和解して、海の神ニヨルズと結婚した。しかし夫婦は性格が合わなかった。スカジは山での狩り暮らし、ニヨルズは海の漁暮らしを希望した。二人は交互に山・海に住んでみたが、それぞれ我慢できないで、とうとう別居してしまった)

【常陸・逸文】-雷に妹を殺された男が、雉の助けにより雷を降伏させた。
★ごぞんじ「桃太郎」の原話である。やはり鳥霊信仰の一変型。

【丹後・逸文】-「浦の嶋子」が亀を助け、海中異界を訪れた。
★もちろん「浦島太郎」の原話。中国ふうの神仙譚も混入している。

【淡路・逸文】-日向の「諸県君」なる者が、大鹿に化けて海を渡り来て、娘・髪長姫を応神に献上した。
★これは牛+乙女が渡海するスキタイ系の「エウロペ型神話」である。

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2008/02/26

『風土記』ノート②-書紀解論(四十二)

『風土記』註解の2回目です。テーマは「渡来者」「先住異族」
 この2点とも、『記・紀』はさんざんボカしているが、『風土記』は全くあけすけに明記します。
 たとえば『出雲国風土記』は、その巻頭に「新羅からの国引き」を置き、『常陸国風土記』は先住異族(=縄文人)の駆逐を描く。さらに『播磨国風土記』は、これ全編が渡来記事集と言ってよいほどです。
 古代における大規模渡来(民族移動)を否定する人たちは、『風土記』を読んでないのだろうか?

◆「渡来」について
【播磨国・飾磨郡】
-ここに大ミマツヒコをつくって住んでいた。
-この地は韓人(ナラノコチカナ)が開拓した。また韓人首長(オビトのタカラ)が富み栄え、韓式の室屋をつくった。
-讃岐から漢人(アヤビト)またミノ人が来て住んだ。
-新羅人が来たので新羅訓(シラクニ)と呼んだ。
-伊和君の族人が住んだ。
【同国・揖保郡】
-讃岐から女神(飯盛大刀自)が渡って来て住んだ。
-但馬から出石君マラヒが来て住んだ。
-韓から「呉のスグリ」が渡って来て、紀伊・摂津また当地に住んだ。
★「ミマツヒコ」は、ミマキイリヒコ(崇神)の前身であろう。

【出雲国・意宇郡】-巻頭に「新羅からの国引き」を説く。
★もちろん国が引けたわけはないので、実際には人間が渡ってきた。

【伊予・逸文】-ワタシ大神(オオヤマツミ)は「百済からの渡来神」という。
★ワタシ大神とは、三島大社の祭神でもある。「海の渡し神」が「ヤマツミ」を称するのは、つまり海民のヤマ信仰。山民信仰ではない点に注意。

【伊賀・逸文】-もとの地名は「加羅クニ」であったという。

【筑前・逸文】-イト県主の族祖は、「高麗のウルサン」に天下りしたヒボコだという。
イト県主とは、神夏礒媛(ヒミコ)らの北九州王家を指す。じっさい『景行紀』にある神夏礒媛の投降と、『仲哀紀』にあるイト県主の投降は、描写が酷似。
 また『垂仁紀』にあるツヌガノアラシト渡来の記事に、イト県主が「この国の王」として誇っていた-とあるのも注意。

【豊前・逸文】-カハル郡の神は、「新羅からの渡来神」という。
★豊前香春社の祭神とは、「カラクニ息長姫・トヨ姫」である。この一項目だけをもっても、渡来の豊前王族=トヨ=神功という等式は決定的!

【日向・逸文】-クシフの地名は、韓国に渡ってきたカムサワケが粟を植えたことに因むという。
★伽耶・金海国には、天卵降臨神話で知られる「クジ峰」があり、九州の「クシフル岳」がこれの移植であるのは明らか。以下の記事も参考になる。
『神代上紀』-スサノオと子イタケルは、はじめ「新羅のソフル」に天下り、そこから舟で出雲へと渡って来た。
『古事記』-ニニギはクシフル岳に天下ると、「この地は韓クニに向かい…朝日・夕日の射すよい所」と国誉めした。「韓クニに向かい」とあるのだから、このクシフル岳が北九州のいずれかにあったことは自明である。

◆「異族」について
【常陸国・茨城郡】-国栖(土蜘蛛=サヘキ)の描写。土穴に住み、権力に従わない。クロサカ命は彼らを騙し、騎兵で殺戮したという。
【同国・行方郡】-東征したタケカシマ命は、「アマ人」でない国栖らを見つけ、騙して騎兵で殺戮したという。
★「土穴の住居」とは、シベリアで見られる「土小屋=ウテン」と同じもの。むかしツングース族やパレオ=アジア族が用いた竪穴式住居である。もちろん縄文住居もこの型に属している。またタケカシマ条からは、征服者が「アマ人」を自称していたことがわかる。
 それにしても…征服者の先住民蔑視は、実にひどい。騙し討ちだし。

【肥前国・値嘉郡】-西海の異族「白水郎=アマ」の記述。牛馬多く、騎射が巧みで、容貌が隼人に似るという。
★重要な記事。白水郎=アマの描写は騎馬民族そのものである。彼らが肥前で「異族」として扱われている意味を読み解く必要がある。またこれが「隼人似」というのならば、渡来の騎馬文化が隼人族にも及んでいた可能性が疑われる。じっさい『景行紀』の熊襲たちは、アツカヤ・サカヤ・イチフカヤ・イチカヤと、みな「伽耶」名を持っている。

【日向・逸文】-新羅還りの神功が、地中から異族「頭黒」を掘り出し、神人としてこき使った。この種族はたくさんいたが、酷使と疫病によって壊滅し、ついには二人のみになったという。
南方系縄文人の酷使と壊滅の記録である。まるでインディオの運命を見るようで、悲惨である。

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2008/02/24

『風土記』ノート①-書紀解論(四十一)

 このシリーズで僕が用いてきた史料は、『書紀』『古事記』『風土記』それに『魏志東夷伝』の4書にほぼ尽きます。4書とも、日本古代史のいちばん基礎の文献です。
『書紀』は矛盾や不整合に充ちているが、まさしくそうであるために、ツギハギ工作を逆にたどって、元の素材に還元しやすい性質を持っています。それこそ『書紀』の史料価値です。
『古事記』は、『書紀』の異版の一つとして読むことができ、『書紀』と比較する場合にのみ、史料として意味を持ちます(『古事記』だけでは、単なるコドモの読み物にしかならない)。
 いっぽう『風土記』は、中央が操作を諦めた史料であり、その価値は『書紀』と並んで第一級です。これは前にも書きました。
 もっとも『風土記』の内容には、これまで少ししか触れることができなかった。そこでこれから、同書の注目記事の一部を、ざっと抽出してゆきます。
 まず1回目は、僕が『書紀』の原版と想定した【原伝承P】を裏書きする記事たちです。
 以下の多くは、従来「意味不明」とされてきた記事であるが、僕の仮説を適用すれば、意味が「読める」ものになります。

◆オオタラシヒコ(景行)の九州遠征
【肥前国・彼杵郡】-景行の九州遠征時、ハヤキツヒメが投降し、彼女の「弟」タケツミマを密告した。タケツミマは追い詰められて、景行に降伏し、神宝(2種の玉)を献上した。
★景行に降った北九州の2王の記。ハヤキツヒメ=女王・神夏礒媛であり、タケツミマ=ミヌ王・猿大海である。タケツミマとは「猛き水沼」で、水沼の主=ミヌ国王と同じこと。

【筑前・逸文】-宗像大神の神体は、「奥津宮=アオニの玉・中津宮=ヤサカニの玉・辺津宮=ヤタの鏡」である。
★北九州王族の3神器(2玉と1鏡)を伝えている。前項とあわせて見れば、この神器が景行に奪われたことがわかる。

【播磨国・託賀郡・黒田】-オキツシマヒメが伊和大神の子を孕んだ。
★トヨ(=イチキシマヒメ)が王孫を身籠もった史実の反映。伊和大神は、出雲-ナラ系王族の象徴。

◆トヨと武内宿禰の東征
【播磨国・飾磨郡・美濃】-筑紫国・火の君の祖が来て、「死んだ女」を生き返らせ、彼女と結婚した。
「死んだ女=惨敗したトヨ」である。「火の君の祖=武内宿禰」が戦況をひっくり返して、「死に態」のトヨを救った。当地を「美濃」と称するのも、武内宿禰=ミヌ王族と関わるか?

【播磨国・飾磨郡・安相】-ホムダ天皇が但馬から来たとき、「豊忍別命」が名を剥がれ、但馬国造は失脚しかけた。
★これはトヨ&武内宿禰の東征戦において、オシノワケが謀殺されたことの関連記事。

【越前・逸文】-気比明神は「宇佐八幡と同じ」。また「宇佐八幡=応神」であり、「気比の明神=仲哀」であるという。
★宇佐八幡=気比明神=ホムダワケである。ホムダワケ(トヨの子)はおそらく東征戦のなかで戦死し、イザサワケ(武内宿禰の子)がすり替わっている。だからホムダワケ=死んだ王=仲哀の等式も成り立つわけ。

◆仁徳クーデター
【播磨国・飾磨郡・飾磨】-仁徳代に、山陰5国の国造が一斉逮捕され、当地で囚役させられた。
【同国・讃容郡・ミカヅキの原】-仁徳代に、伯耆のカグロと因幡のオホユコの一党が逮捕され、水責めの拷問を受けた。
★どちらも仁徳クーデター後の人事粛清。出雲系勢力を弾圧して、その神器(鏡)を奪ったのである。『垂仁紀』の出雲振根・十千根大連らの記事もこれの異伝。

【因幡・逸文】-仁徳代に、武内宿禰が宇部山で姿を消したという。
★武内宿禰の最期である。隠退ないしは失脚であったろうか?

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2008/02/22

「日向の妃」とエウロペ神話-書紀解論(四十)

 前回の続きで、表18の下段Zを解析します。

◆Z-くり返された隼人首長からの「献妃」
 前回では、景行の九州遠征時に、隼人首長(日向諸県君)が2人の娘(XイチフカヤとYイチカヤ)を差し出して帰順した-という記事を見てきました。いわば「政略献妃」です。
 隼人首長から大王家への「献妃」は、のちに再びくり返されます。この妃が(⑥日向泉長媛=⑦日向髪長媛)です。Z⑥とZ⑦は同一と見て間違いなく、つまりはもと応神妃を仁徳が奪い取ったわけだ。ま、ここまでは簡単ですね。
 だがに関わって奇怪なのは、『応神紀』また『淡路国風土記逸文』にある次の記事です。

d)淡路の西の海を、「数十の大鹿」が泳ぎ渡ってきた。これは日向の諸県君牛たちで、みな鹿皮を着ていたのであった。牛は、娘=髪長媛を応神に献上した。

 これはマジメに考えると、ぜんぜん意味の取れない説話だ…。いったいどうしてこんな話がつくられたのか?

◆「海を渡る牛=姫」神話
 じつはdにやや似た話は、『垂仁紀』にもありました。

e)加羅王子ツヌガノアラシトは、「黄牛」を失った代償に「石神」を手に入れた。するとその石が「美女」に変わった。彼が迫ると、美女は逃げ出して海を渡った。彼女は日本の難波また豊前国東へ至って、両所で「ヒメコソ神」として祀られた。ツヌガノアラシトも彼女を追って来日した…。

 ツヌガノアラシトが「典型的な朝鮮神話」の主役であり(→★三十六)、かつミマキイリヒコとも接続すること(→★三十八)は、すでに解説しています。
 さて問題は、d【牛=鹿が海を渡って姫を運ぶ】・e【牛=石姫が海を渡る】という説話上の相似性です。
 牛は西アジア起源の家畜なので、「牛の神話」もとうぜん大陸渡来なわけだ。するとd・e型の話は、どこか西方世界にもないだろうか?
 ここで次の話を見てください。遠いギリシアの神話です。

f)フェニキアの姫エウロペを、ゼウス神がに化けて誘拐した。牛=神は姫を背に乗せて海を渡り、クレタに至った。のちエウロペはクレタ王の妃となった。

 この神話は有名で、「ヨーロッパ」名の起源にもなっています。つまり彼女が海を渡ってきた「こちら側」がエウロペア=ヨーロッパであり、「元いた側」がアジアというわけ。
 fの他もギリシアには、「牛に恋したパシパエ」「牛となって追われたイオ」など、【牛=姫】のペア神話が幾つもあります。
 d・e・fを並べると、【牛-姫-渡海】という話素のつながりは歴然です。
 すると日本(と伽耶)のd・eは、ギリシアと同系の神話なわけだ!

◆日本とギリシアをつなぐスキタイ
 いったい日本とギリシアには、神話に「特異的」な類似が多く、このことはデュメジルや吉田敦彦氏らによって指摘されてきました。この話もまさにそれです。
 両神話の間では、他にも、次のような相似が有名です。

●オルフェウス=イザナギの「冥界往来」
●ペルセウス=スサノオの「龍退治」
●デメテル=アマテラスの「岩屋籠もり」
(参照→〈★日本神話の北方要素〉)。

 遠く離れた日本とギリシアを結ぶものは、何だろうか? 吉田氏はそれをスキタイ文化と考え、「ギリシア=スキタイ=朝鮮=日本」神話の共通項を幾つも挙げています。まさしく僕もこれを支持する。他には考えられないからです。
 いったいスキタイ文化とは、北ユーラシアの西から東へ、帯状に拡散した文化です。「戦士結社・馬と金属の文化・剣霊信仰・鳥霊信仰」らが主な特徴。印欧祖族~テュルク族~モンゴル族らの複数民族が、さまざまな形でその文化を担いました。
 カフカス山地のオセット族、中央アジアを駆け回った匈奴族、東欧に君臨したフン族、ブルターニュまで西遷したアラン族…らは、みなこの流れに属しています。
(参照→〈★馬の世界史〉)。

◆北九州の「サカの国」
 ときにギリシアは、先住民ペラスゴイを征服民ドーリス人が支配して成り立っており、ドーリス人は黒海方面から侵入した騎馬民族です。つまり彼らはスキタイの支流だと考え得る。ローマに入ったサビニ人も、やはりそうだ。
 いっぽう日本の成り立ちには、中央アジア→秦帝国→斉(山東)→南韓→西日本と渡って来た集団が重要な一部を構成した…と考えられ、彼らがスキタイ文化を持ち伝えた可能性がとても高い。
 なお「スキタイ」とはギリシア語で、彼ら自身の自称は「サカ」です。これを頭に入れるなら、『風土記』に「坂・酒・栄・佐嘉・佐久・裂・咲…」らの語素が頻出することは見落とせない。
 たとえば以下の記事などは、どうでしょうか?

『肥前国風土記』-ここには楠の巨樹があり、ヤマトタケルが見て「サカの国」と名付けた(栄=佐嘉=佐賀)。

 前回に見た「aイチフカヤ=bタルペイア=cダユー」説話の相似も、まさしくスキタイをつなぎに考えれば、解けるわけだ。
 熊襲の娘にローマやブルターニュの神話が重なり、日向の妃がギリシア神話のように海を渡る。その背後に大陸を駆け破ったスキタイ文化の奔流があるとすれば、何とも壮大な話ではないでしょうか。

[追記]-スキタイ文化の本拠である中央アジアのホレズムにも、同型の伝説があったのを見つけたので、書いておきます。次のような話です。
「ホレズムの都市グュリスタンは、カルムィク人に攻囲された。都市の王女グリドゥルスンは、敵の王子に片恋し、秘密を知らせて都市を陥落させた。だがカルムィクの王子は、裏切り者は許せぬとして、王女を八つ裂き刑にした」
 出典は、ヤクーボフスキーほか著『西域の秘宝を求めて-スキタイとソグドとホレズム』p89~91です。

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2008/02/19

「日向の妃」の謎を解く-書紀解論(三十九)

「景行・応神・仁徳」代には、幾人も「日向の妃」が現れます。
 辺境である日向から、立て続けに「妃」が出ることは不可解です。しばしば彼女らの名が重複する(日向髪長大田根・日向髪長媛・日向泉長媛・諸県君泉媛…)こともおかしい。この伝承の背後には、いったい何があるだろう?
 この問題を、ここから2回かけて追求します。はじめに断っておきますが、これは幾つもの史実と神話をたぐってゆく、たいへん遠い旅になります。

◆原像は3人!-姉妹【X・Y】と美妃【Z】
 まずは表18から見てください。「日向の妃」およびその関連像10人を、思い切ってX・Y・Zの3原像に整理しました。
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【X・Y】-景行(オオタラシヒコ)の九州遠征時、熊襲の首長=日向諸県君から献じられた娘2人。
【Z】-応神(ホムダワケ)の在位中、やはり日向首長から献じられた美姫。のちに仁徳(オオサザキ)はクーデターで政権を奪い取って、彼女を自分の妃に加えた。

 このどちらとも、すでに以前にも触れています。【X・Y】については〈★三十四-ヤマトタケル解読Ⅰ〉を、【Z】については〈★二十五-仁徳クーデター〉を、見てください。

◆X・Y-「父殺しの姉」とその妹
 まずX・Yから扱います。この核記事は①であり、②③④はそのダブレットと見なします。
 では重要な①記事を、『書紀・景行紀』から再び抽出しておきましょう。

a)九州遠征に出た景行は、「アツカヤ・サカヤ」なる熊襲賊首の存在を知った。2人は強勇で「熊襲の八十梟帥」と呼ばれていた。景行は、熊襲側から娘2人(姉イチフカヤ・妹イチカヤ)を献じられ、姉妹を寵愛。そして姉に手引きさせ、父の梟帥を酔い潰させて、暗殺させた。のち景行は、姉の裏切りを憎んで、彼女をも殺害した。

 この①X【姉イチフカヤの父殺し】が、のち【ヤマトタケルのクマソタケル殺し】に転用されたことは、解説済みです。
 また①Yイチカヤは「火国造」に与えられたといい、②Y襲武媛は「火国別」を産んでいるので、同一人であるのが確実。
 同様に、②X髪長大田根は「日向襲津彦」を産み、③X御刀媛は「日向国造の祖」を産んでいるので、これもまさしく同一人です。
 それにしても気になることは、上の説話に登場する熊襲4人が、全員「カヤ」名を持つことです。
 すると、彼ら熊襲の支配層たちも、伽耶系の渡来民なのではあるまいか…?

◆「裏切りの娘」を憎む神話
 僕がそのように疑うのは、他にも理由があることです。ここで次の2伝説を見てください。

b)ラティウム人の王ロムルスは、ローマ市を創ったのち、サビニ人と争った。サビニ騎兵はローマを攻めた。このときローマ城門の鍵は、タルペイアという若い娘が預かっていた。彼女は敵のサビニ王に片恋して、城門を開き、敵を市内へ引き入れた。だがサビニ人は彼女の「裏切り」を憎み嫌い、盾で彼女を圧し殺した。

c)ブルタ-ニュの海岸には、かつてイスという都市があった。市門の鍵は、王女ダユーが預かっていた。ところがダユーは異邦の騎士に片恋して、彼に鍵を渡してしまった。騎士が鍵を開いたために、イスの都は洪水に呑まれ、ダユーもろとも海に沈んだ。

 いったいローマは3民族の混合(ラティウム・サビニ・エトルリア)からできた都市で、そのうちサビニ人は「騎馬民族」であったとされます。
 またブルターニュは、先住ケルト人を、スキタイ系アラン人が駆逐した土地とされます。「騎士」がイスを滅ぼしたとは、まさしくスキタイ騎馬民族が、ケルト文化を破ったことの反映です。
 ここでaイチフカヤ=bタルペイア=cダユーが相似することを見てください。3人とも【敵に恋した娘の裏切り→娘は罰され殺される】という同一の話型ですね。
 タルペイア=ダユーの説話は、「約盟」を尊び「裏切り」を嫌悪する騎馬民族系の古神話だといわれます。
 この問題は、長くなるので、追求するのは次回にしましょう。
 なお『景行紀』に拠れば、襲武媛(=イチフカヤ)は、景行の3子を産んでいます。そこで僕は、イチフカヤが「殺された」というのは史実でなく、その部分は古神話による追加であろう-と推定します。

◆X’・Y’-「醜い姉」イワナガと妹サクヤ
 ところでまた、「悪を憎まれた姉」というイチフカヤ像は、なんと「醜さを憎まれた姉」イワナガとも同じであることに、気づかされます。
 するとイチフカヤ・イチカヤ姉妹の伝承は、【イワナガ・コノハナサクヤ神話】の構成にも利用されている-と推定しうる。
 つまり【イワナガ・コノハナサクヤ神話】を因数分解すると、

ⅰ)誤った選択により「死・短命」を宿命づけられる古神話(類話は東南アジア・オセアニアなど広く分布)。
ⅱ)姉妹のうち、姉は「悪=醜さ」によって憎まれた-というイチフカヤ・イチカヤ伝承。
ⅲ)さらにコノハナサクヤには、全く別に史実から、「トヨ=豊吾田津姫」像を合成。

 -と三つの要素に開けるわけだ。ⅲはこれまで何度も解説してるので、たとえば〈★二十四-書紀にはトヨが11人いる!〉を見てください。

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2008/02/14

アマノヒボコと「筑紫イト国」-書紀解論(三十八)

 今回は、「新羅からの渡来王子」アマノヒボコと、筑紫「イト国」の関係について考えます。

◆ヒボコ系=渡来の剣霊信仰集団
 まず『古事記』また『書紀』によれば、アマノヒボコは新羅王子で、但馬国の出石[兵庫県豊岡市]に渡来したとされています。じっさい今でも出石神社は、かれヒボコを祭神としています。
 いっぽう『筑前風土記・逸文』では、伊都県主を、「高麗のオロ山に天下ったヒボコの子孫」としています。すなわち筑紫イト国は、ヒボコ系の拓いた国だというのです。
 また『播磨国風土記』では、ヒボコ系が播磨の西部から侵略してきて、先着の出雲系と激しい「国占め」争いをくり広げたと伝えています。播磨の西は吉備であるから、これからするなら吉備族は、おそらくヒボコ系でしょう。また出雲系と争ったすえ、けっきょくヒボコは但馬の出石を占めたとされ、これはつまりヒボコ系が、
「筑紫イト→吉備→播磨西部→但馬出石」
 と移動したことを意味するのだと思います。
 なお彼の名(天日槍・天日矛)や、『垂仁紀』にある神剣説話(イズシの刀)は、ヒボコ一党の「鉄文化=剣霊信仰」を示すものです。『播磨国風土記・揖保郡』記事でも、ヒボコが猛々しい剣神であったとしています。

◆「筑紫の降伏者」-3つの重複記事
 ところで『筑前風土記・逸文』の記事はこうです。

A)仲哀が九州遠征したとき、「イト県主の祖・イトデ」は、サカキを舟に立て、その枝に「八尺瓊の玉・白銅鏡・十握剣」をかけて現れ、穴門にて降伏した。そのときイトデは「高麗のウルサンに天下ったヒボコの子孫です」と名乗った。

 Aとほぼ同じ記事は『書紀・仲哀紀』にも見えています。だが『仲哀紀』はそのすぐ前段にも、酷似の記事をまた載せる。

B)仲哀が九州遠征して穴門に至ったとき、「岡県主の祖・ワニ(熊鰐)」が、サカキを舟に立て、その枝に「白銅鏡・十握剣・八尺瓊の玉」をかけて現れ、周防の佐波にて降伏した。

 さらに『景行紀』まで戻って見ると、そこにも酷似の記事があります。

C)景行が九州遠征して佐波に至ったとき、「一国の長・神夏礒媛」は、サカキの枝に「八握剣・八咫の鏡・八尺瓊の玉」をかけて現れ、舟に白幡を立ててきて、降伏した。

 所も同じでカタチも同じ。A・BはCの複製記事と見て間違いない。そうすると-

「C神夏礒媛=B豊前のワニ=Aイト県主」は、ヒボコ系の同一人物である。
「C景行=AB仲哀」は同一人物である。

 という等式が成り立ちます。
 ①はつまり、筑紫女王・カムナツシヒメ(=邪馬台女王ヒミコ)がイト王家の出身で、その父祖がヒボコであることを指している-と考えます。
 また②「景行=仲哀」の同一性は、他の点からも論証でき、すでにこれまで書いてきました。
(参照→〈★三・分解された景行伝承〉また〈★五・武内宿禰・長命の謎〉)。

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2008/02/12

ツヌガノアラシトと「東征記憶」-書紀解論(三十七)

◆渡来神話と「トヨ・武内宿禰」ペア
 ここではまず、前回ふれた『垂仁紀』中の渡来神話、【S①】に目を向けます。
 この【S①】の主役二人の渡来路は、以下のようでした。

α.アカルヒメ) 豊前国前・難波
β.ツヌガノアラシト) 穴門→出雲→敦賀

 ところで僕は、すでにオオタラシヒコ死後の〈継承戦争〉について、『書紀』の読みから復元をしてきました。
(参照→〈★十四-神功惨敗!〉また〈★十五-オシクマ王の悲劇〉)。
 このとき「東征」主役二人の進軍路は以下のようでした。

A.トヨ) 豊前宇佐→瀬戸内→難波・河内
B.武内宿禰) 香椎→出雲→敦賀→山城

 αβとABの軌跡が似ている…とは思いませんか?
 ちなみに「穴門」は、仲哀の葬地とされるが、その密葬はB武内宿禰が行ったと『仲哀紀』は伝えます。
 これらを考え合わせると、ますます2組の軌跡はよく重なる。これは一体どういうことか?

◆「東征戦」の記憶が今に残る
「Aトヨ・B武内宿禰」の東征記憶は、じつは他にもあちこち現れ、日本神道の「見えざる骨格」となっています。
 証拠を示しましょう。表17を見てください。

Page002

 列挙したのは、みな「古社」で、ほとんどが旧分国の「一ノ宮」です。
 トヨの征路上には、彼女の記憶を留める古社が線上に連なります。さらに武内宿禰の征路もそう。『紀』『記』『風土記』それに社伝を重ね合わせると、さながら二人の進軍状況が見えるようだ。
 なおトヨら以前に「東征」したとされる神武は、全然こんな痕跡は留めていません。これは「神武の東征」が虚構であり、「トヨの東征」こそが史実であったという、僕の仮説の補強証拠の一つです。
 他にも、豊前豊後(トヨの国)・愛媛=イヨ(トヨ国の対岸)・姫路(トヨの東征路)らの地名は、トヨの記憶にちなんでいるものと察せられます。
 よく考えれば…これは相当にすごいことです。だって3世紀の建国〈継承戦争〉における記憶が、そのままずうっと歴史を通じて、保存されてきたのだから。その内容は忘れられてしまったのに!

◆なぜ「渡来神話」がトヨたちに重ねられたか?
 さて問題は、どうして「A・B」の東征記憶に、渡来神話「α・β」が重ねられているのか?…です。
 そのわけは、トヨも武内宿禰も「渡来系」であったからだ-と僕は察する。
 そうではないと言う人たちは、はたして以下の材料を、どう解釈するでしょうか?

●豊前香春の神は「新羅からの渡来神である」-『豊前風土記・逸文』
●香春社の祭神は、「辛国息長姫&豊姫」である-(同社伝。「辛国」はカラクニと読む)
●伊都県主は、「高麗ウルサンに天下ったヒボコの子孫」-『筑前風土記・逸文』
ヒボコ系の葛城タカヌカヒメは、息長帯比売=神功の母である-『古事記・応神記』

 続きます。

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2008/02/09

ツヌガノアラシトとアマノヒボコ-書紀解論(三十六)

(*記事36~38は、初稿に不備がありました。全面的に改稿しました)

『書紀・垂仁紀』には、「韓国からの王子渡来」記事が2つ並んでいます。どちらもたいへん重要な問題を秘めています。その2王子とは、
大加羅国王子・ツヌガノアラシト
新羅国王子・アマノヒボコ
 -の2人です。以下では彼らに注目します。

◆「牛姫神話」と2人の王子
 じつは『書紀』また『古事記』では、この2人の記事に異同があります。
『書紀』は、上に述べたよう、①②を並べて「垂仁紀」に載せています。

【S①】大加羅国の王子アラシトは、黄牛(あめうし)を大切に飼っていた。ところがその牛を村人たちが食べてしまった。アラシトは村人らを問責し、かわりに村の神である白石を取り上げた。すると白石は乙女に変じた。アラシトは彼女をモノにしようとしたが、乙女は海を渡って逃げた。そうして乙女は日本へ逃げ着き、難波のヒメコソ神となって鎮座した。また豊前の国東でもこの神を祀っている。
 アラシトも乙女を追って来日し、穴門(長門)へ来た。ところがそこではイツツヒコ「この国の王」として治めており、彼を拘束しようとした。アラシトは厭がってそこから逃げ、出雲まわりで越に到着した。彼には「角」があったので、それにちなんでその上陸地は「角鹿」=敦賀と呼ばれた。

【S②】新羅王子ヒボコは、はじめ播磨の宍粟にいた。彼は垂仁大王に八種の神宝を献上した。垂仁は「宍粟か淡路に住みなさい」と彼に言ったが、ヒボコは自ら住む所を選びたいと言い、各地を巡ったすえ、但馬の出石に居着いた。

 いっぽう『古事記』は、②ヒボコについてのみ記し、その記事を「応神記」に載せています。

【K②】沼のほとりで女が日光によって妊み、赤玉を産んだ。ある男がその玉をもらい受けた。ところが新羅王子ヒボコは、その男が牛を殺すつもりだと言いがかりをつけ、責めて男から玉を奪った。すると玉は乙女に変じた。ヒボコは乙女を妻とした。
 乙女はヒボコによく仕えたが、ヒボコは驕って彼女を罵った。すると乙女は小舟で海を渡って逃れ、ついには難波のヒメコソ神=アカルヒメとなって鎮座した。ヒボコも彼女を追ってきたが、難波に入れず、けっきょく但馬に居着いた。

 こう見ると、アラシトの【S①】とヒボコの【K②】は、「牛-乙女-逃れて渡海」というモチーフが共通です。この神話原型については、〈★日向の妃とエウロペ神話〉で考証したので、見てください。
 また【K②】は、いわゆる「日光感精」モチーフをも含みます。これが朝鮮半島の王祖伝説に広く見られることは有名です。

◆「①=②同一人物説」を否定する
 さて上に見たよう、アラシト【S①】-ヒボコ【K②】はとてもよく似た物語です。そのため「アラシトとヒボコは同一人物」といわれたりする。だが本当にそうだろうか?
 ここで【S①】に、「新着のアラシトvs先着のイツツヒコ」の対立があることを見てください。このイツツヒコ(伊都都比古)とは、どうも「イト国の王」らしく思われます。
 言うまでもなくイト国(伊都国)は、北九州の有力国です。107年に前漢・安帝に朝貢した「倭面土国王・帥升」も、イト国王を指す-と見るのが有力です。
 ところで『筑前風土記・逸文』は、イト県主が、
「高麗の国のオロ山に天降ったヒボコの子孫」
 と名のったことを記録します。ここでは「高麗」と言ってるが、オロ山=蔚山(ウルサン)は新羅領で、新羅の王都・慶州(キョンジュ)のすぐ南に位置します。
 そうであるなら、新羅系「ヒボコ集団」が北九州へ渡来してイト国を建てたのは、107以前(たぶん1C後半)であったはずです。
 またアラシトの渡来は、イト建国後であったはずで(たぶん2C前半)、となればもちろん①アラシトと②ヒボコは別人と断定できます。両者は渡来ルートも違い、出身国も違っている。
 ちなみに①の出身国である「大加羅」とは、伽耶北部の高霊(コリョン)・星州(ソンジュ)らの勢力の名称です。
 続きます。

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2008/02/06

「ヤマトタケル伝説」を解体するⅡ-書紀解論(三十五)

 前回の続きで、表15を用いて、ヤマトタケル伝説の③-⑫段を解析します。
『Ny-書紀』と『Ky-古事記』を対照しながら、「S-素材」を明らかにする作業です。

◆③-⑫の材料たち
【③出雲健】
 これは『書紀』に対応がなく、『古事記』のみが記します(Ky③)。この材料もはっきりしている。崇神紀にある次の記事です。

S③出雲振根の留守中に、弟・入根神器(鏡)を朝廷へ引き渡した。怒った振根は、弟を水浴に誘い出し、弟の剣を木刀と入れ替えて、斬殺した。朝廷は罰として振根を殺した。

 見ればわかるよう、Ky③はこれのまるごと流用です。
 なおS③の背景には、
「ワカタラシヒコ系=出雲臣氏が2神器を預かる(鏡・玉)→仁徳政権が鏡を没収・出雲弾圧→のち持統政権が玉も没収
 …という史実が想定され、傍証は『書紀』や『風土記』の各所にあります(参照→★十五-オシクマ王の悲劇)。

【④再出征】
 この段については、前回にオオウス絡みで触れています。
 なおNy④のヤマトタケルは、父の東征命令を「雄々しく」承命しているが、Ky④では父を恨んで嘆いています。これは悲劇を盛り上げるため、『古事記』が演出を図っているわけ。

【⑤ヤマトヒメ】
「叔母ヤマトヒメ」は、やはり崇神紀の「叔母ヤマトトトヒモモソヒメ」の転用像。また草薙剣は、尾張氏の剣霊祭祀(→熱田社)からの追加でしょう。
 ヤマトタケル伝説には、尾張氏の伝承がつよく反映しています。また剣霊を祀る尾張の熱田社は、関東の鹿島社・香取社と性格が同じです。

【⑥焼津】
 これはありがちな地名説話。「焼」→「火攻め」という連想です。なおKy⑥が「相模の焼津」というのは単純ミス。Ny⑥「駿河の焼津」が正しい。

【⑦海難犠牲】
 この材料は[風土記・筑前逸文]に見えています。大伴狭手彦(サデヒコ)が玄界灘で荒海に阻まれ、海神が彼の恋人(ナゴワカ)を欲しているというので、泣く泣く彼女を筵に乗せて海に流した-という説話です。
 狭手彦「悲別ロマンス」は、他にも複数の異型が『風土記』『万葉集』にあり、古代にはひろく流布していたのでしょう。なおこの類話は朝鮮半島に多くあります(参照→★韓国の民俗学の「恨死した女」)。

【⑧蝦夷征伐】
 Ky⑧またSy⑧とも内容の乏しい段です。強いて言えば、[常陸国風土記]のクロサカ命・タケカシマ命らが原像でしょうか。
【⑨吾妻】
 吾妻の地名説話に歌謡を合成したもの。なお「吾妻=アヅマ」の原意は、接頭辞「ア」+辺境「ツマ」。これの類語に、接頭辞を取り替えた「サ+ツマ」があります。
【⑩信濃の神】
 これのみ素材が不明です。中部地方の『風土記』は全て散失しているので…。
【⑪尾張】
 ⑤と同じく、ここの素材も尾張氏でしょう。つまり尾張氏の剣霊祭祀が先にあって、その祭剣に、ヤマトタケルが結合されたものと思われます。

【⑫悲劇死】
[常陸国風土記]にあるクロサカ命の葬送譚がこれに近い。蝦夷征討の帰りに斃れ、その葬旗(赤幡と青幡)が「雲の如く虹の如く天を翔けた」という記事です。
 なおNy⑫では父・景行の荘重な(大げさな)弔辞を記すが、Ky⑫ではそれはなく、かわりに国見歌謡や地名説話(杖衝坂とか三重とか)が盛り込まれている。ここでも『古事記』の演出・増幅は明らかです。

【⑬白鳥霊】
 ここには葬礼の儀式や歌謡の反映が目立っています。
 なお「白鳥」は、垂仁紀ホムツワケ伝や『風土記』各所に登場しており、古代に「鳥霊信仰」が強力であったことを示しています。「白鳥」を昇天霊のシンボルと見なすのは、シベリア=スキタイ系の神話に広く見られます(参照→★シベリア民話集

 …こうして見ると、ヤマトタケル伝説の各パートは、ほぼ「材料」が明らかなものばかりです。これだけ「材料」が転がっているのだから、この伝説を史実と見なすことはできないでしょう。

◆原ヤマトタケル伝=【原伝承P】?
 最後に蛇足で、一つの憶説を述べておきます。
 僕が『書紀』の原版と想定した、オオタラシヒコ(景行)-トヨ(神功)-ホムダワケ(応神)-オオサザキ(仁徳)らを主役とする建国の口承叙事詩=【原伝承P】。ほんらいその叙事詩の呼び名こそは、ヤマトの英雄詩=【ヤマトタケル物語】ではなかったでしょうか…?
『書紀』はその英雄詩から、神話-古史を構成し、かつその題名に適するような英雄像をも作出したのだ-と思うのです。
(参照→★二十六・仁徳クーデターと原伝承P

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2008/02/04

「ヤマトタケル伝説」を解体するⅠ-書紀解論(三十四)

 今回は、ヤマトタケル伝説を扱います。

◆もし「材料」が転がってたら…?
 まずは喩え話として、こういう例を考えてみてください。
 あなたの知人が、「手打ちの蕎麦づくりに凝ってるんだ」と吹聴して、あなたを家に招待した。あなたが居間で待ってる間、台所からはしきりにトントン音がする。やがて知人ができあがりの蕎麦を運んで、あなたに食べさせてくれた。ところがあなたは味オンチで、うまいかまずいかわからない。知人がちょっと席を外した間に、ふと台所を覗くと、そこにはインスタント蕎麦のカップが転がっていた…。
 そこで質問-。あなたは知人がほんとうに蕎麦を手打ちしたと思いますか? それともインスタント蕎麦を食べさせたのだと思いますか?

 この質問、実はヤマトタケル伝説をどう解釈するか…って喩えになってます。
『記・紀』が征服の英雄として描き出すヤマトタケル。しかし『書紀』や『風土記』をよく見るなら、その英雄譚の「作成材料」らしいのが、ゴロゴロ転がっているのです。

◆『書紀』と『古事記』を比較する
 では表15をクリック拡大して見てください。『書紀』のヤマトタケル伝説(Ny)と『古事記』のそれ(Ky)との比較表です。

152

【①初出征-④再出征】
 まずNy・Kyの違いとして目立つのが、兄オオウスの扱いです。Kyではいきなり①オオウスは殺されるが、Nyでは、彼は④東国遠征を忌避して左遷された-と書かれるだけ。
 すでに〈★十九-崇神紀から応神朝伝承を解読する〉の表3で見たように、ここは明らかにNy④が古型です。すなわち「父の課題→弟が兄に克って相続」という先史期いらいの古神話だ。
 この「弟が兄に克つ」という神話要素を、Ky①はより劇的(マンガ的)に脚色して、弟オウス(ヤマトタケル)のキャラを立てているわけです。
 なお景行が求婚して娶ったというS①「美濃の弟ヒメ」からは、以下の物語要素が作出されています。

Ny①-ヤマトタケルの従者「美濃の弟ヒコ」へ転用。
Ny①-さらに「美濃の兄遠子・弟遠子」にも転用され、彼女らをオオウスが「横取り」したとの挿話に使って、彼の邪性を強調する。
Ky①-やはり「美濃の兄ヒメ・弟ヒメ」へ転用され、オオウス「横取り」の挿話に利用。

 一つの材料からどんどん話が増幅されていることが、わかるでしょう。

【②熊曾建】
 ヤマトタケル伝説の「華」とも言うべきこの話、これもまさしく景行紀に材料が転がってる。それは以下の話です。

S②-九州遠征に出た景行は、「アツカヤ・サカヤ」なる熊襲賊首の存在を知った。2人は強勇で「熊襲の八十梟帥」と呼ばれていた。景行は、熊襲側から娘2人(姉イチフカヤ・妹イチカヤ)を献じられ、姉妹を寵愛。そして姉に手引きさせ、父の梟帥を酔い潰させて、暗殺させた。のち景行は、姉の裏切りを憎んで、彼女をも殺害した。

 熊襲梟帥・酔い潰し・娘による暗殺…というこの話は、まさしくNy②そしてKy②の原型であることが明白です。

 なお景行紀・S②の前後には、矛盾・重複も目につきます。たとえばS②の賊首は2人なのに、殺しているのは1人だけです。このすぐ後には、

「兄夷守・弟夷守」なる2首長が景行に従った。
●夷守(宮崎県小林)で「諸県君泉媛」が景行に贈り物をした。
「兄熊・弟熊」なる2首長は、兄を降し、弟を殺した

 -らの記事があり、これは全て重複異版であるでしょう。つまり「アツカヤ・サカヤ兄弟」=「兄夷守・弟夷守」=「兄熊・弟熊」=「日向諸県君」なわけだ。そして諸県君「泉媛」とは、イチフカヤ・イチカヤ姉妹(のどちらか)を指すと見て間違いない。
 すると史実においては、「兄アツカヤ」は帰順して、「弟サカヤ」が殺されたのだ…と推定できます。
 Ny②では殺した賊長は1人、Ky②では2人です。つまり『書紀』は原話を矛盾ごと保存しており、いっぽう『古事記』は物語の整合性を採ったわけだ。
 なおイチフカヤ・イチカヤ姉妹については、他にも論ずるべきことがあるが、それは別回に回しましょう。

 もう長くなったので、③-⑫段の解は、次回で。

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2008/02/02

『書紀』と『古事記』を考える-書紀解論(三十三)

 前回では、『書紀』のツギハギ大混乱を、例を挙げながら見てきました。またそのツギハギをよく見ると、きれいに素材に分解できることも示しました。
 いっぽう『古事記』は、より筋立てはシンプルで、『書紀』のような混乱は見られません。
 今回は、この視点から、『書紀』と『古事記』のありようを考えます。

◆【原伝承】の改変企画-中臣連大嶋の基礎プラン
 はじめて国号を「倭国」から「日本国」に改め、かつ王号を「治天下大王」から「天皇」に改めたのは、天武天皇であるといわれます。壬申の乱(672)を勝ち抜いて「初代天皇」となった彼は、天皇絶対中心の国制をつくり出そうと意図しました。
 ここで問題になったのが、建国起源を語る【原伝承】の扱いです。おそらく【原伝承】は、

倭国の起源が朝鮮半島にあり、その建国年は高句麗の建国年(BC37頃?)より新しい。
倭国の初めには、畿内ナラ系と北九州ヤマト系の王統が並立しており、互いに抗争をくり広げた。

 -ことを語っていた。この2点とも、天武には、とうてい容認できないものでした。
 そこで天武は【原伝承】を改変するため、「帝紀および上古の諸事」を整えるよう、中臣連大嶋らに勅命した(681)。同時に建国神話の「誦習」が稗田阿礼に課されました。
 稗田阿礼は、語り芸能をする「猿女」の一員だったと考えられ、とうぜん【原伝承】を熟知していたと思われます。
 ここで第一に重要なキーマンは、中臣連大嶋です。彼は神祇を司る中臣氏の氏上(うじのかみ)でした。大嶋は、おそらく阿礼を監督し、【原伝承】を改変する役目を負ったのでしょう。
 大嶋は、持統女帝の即位礼(690)にあたって「天神寿詞/あまつかみのよごと」を奏上し、また『神宝書』を献じています(692)。これらにはすでに「天孫降臨」のコンセプトが見えており、大嶋の構想が公的神話の母胎となったことは明らかです。
 さらに大嶋構想の宣伝者として、柿本人麻呂が挙げられます。彼は高市皇子の死(696)にあたって、
「天の河原の神集い~アマテラスの司命~天孫降臨~一系王統の支配」
 というモチーフを謳っている。国策神話の謳い手として、彼の役割はローマのウェルギリウスにあたるといえます。

◆物語『古事記』の制作-不比等と武智麻呂
 中臣連大嶋は、持統七年(693)に没しました。このあと大嶋の役割を継いだのは、藤原不比等(史)であると思われます。大嶋と不比等は年の離れたまたいとこです。
 不比等は文武の即位(697)より台頭して、つづく元明・元正代には国家建設のプランナーとして活躍しました。
 さて天武十年の詔勅から三十年のち、ようやく稗田阿礼の語りを太安万侶が筆録しました。こうして成ったのが『古事記』です(712)。このとき図書頭として、宮中の古記録を管掌していたのは、不比等の長男・武智麻呂でした。すなわち『古事記』の影の監督者は、不比等・武智麻呂の父子であったと考えうる。これは大嶋構想をベースとして、【改変伝承】を物語化したものであるといえます。

◆国史『日本書紀』の制作-不比等の執念
 さて『古事記』によって【改変伝承】の物語はできたものの、それは唐や新羅に対して「国史である」と提示するには、まだ体裁の整わないものでした。不比等は、その三男・宇合(うまかい)を遣唐使に送っているが、このとき宇合らはその点を痛感したものと思われます。
 そこで元明女帝によって、あらたに「国史撰集」が命ぜられた(714)。作業総裁は舎人親王であったけれども、ここでも不比等・武智麻呂・宇合らが深く関与したことは疑えない。
 この「国史撰集」には大勢のスタッフが動員されたはずで、完成したのは720年の五月でした。ときに不比等は63歳、すでに病が重かったという。
『書紀』には矛盾や混乱が多く、いかにも未完な印象を与えるが、これは「なんとか不比等の存命中に」と仕上げを急がせたせいではないだろうか? 『書紀』の完成を見届けてのち、不比等は同年八月に没しました。

*注-『日本書紀』は後の通称で、その原題は『日本紀』であったという。

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2008/01/30

『書紀』に「操作」の痕跡を見る-書紀解論(三十二)

 ここからは2回使って、『書紀』『古事記』の関係を考えます。
 まずこの回で『書紀』のツギハギぶりを確認して、その次で『書紀』制作の現場ならびに『古事記』を扱う…って手順を踏みます。

◆『書紀』神話の混乱例
 だいたい『書紀』の前半では、「また一書はいう…」って別文がウジャウジャ出てきて、すごく混乱しています。途中で人名が入れ替わったり、話が飛んでしまうのもしょっちゅうです。
 ここではその混乱例の一つとして、『書紀・神代下紀』から、【A-アマノオシホミミの妃/B-ホノニニギの妃/Bの産んだ子たち】の3項目を抽出し、表14に並べてみました。クリック拡大して見てください。ひどい矛盾・混乱ぶりが見て取れます。

Grp14_2

◆ハタとアタ
 まずA・Bに注目しましょう。
 どっちも名前は細かく変わるが、Aでは「幡=ハタ」が、Bでは「吾田=アタ」+「鹿葦=カシ」が、だいたい共通しています。そこでAは「ハタ姫」と、Bは「アタ・カシ姫」と呼べるでしょう。
 このA「ハタ姫」とB「アタ・カシ姫」は、僕の仮説じゃ、どちらも「トヨの分身」と理解されます。じっさいA・Bとも別名の一部に「豊」を含む。ハタとアタは明らかに類音です。
 もうA・Bの名前とも、すでに扱いずみ(→★書紀にはトヨが11人いる!)なので、ここで詳しく立ち入るのはやめておきます。ただ以下の点だけ、再確認しておきます。

【ハタ】-豊前宇佐の「ヤハタ=八幡」信仰、またその信仰を担った渡来氏族「ハタ=秦氏」、さらに日本古語の「海=ワタ」、また朝鮮語の「海=パダ」との関連語素。
【カシ】-神功伝説の起点「香椎」
【秦氏とは?】-武内宿禰を太祖とする6氏族の一つ。その表字は、彼らが「秦帝国」の亡命民を自称したことを示している。『魏志・東夷伝』が「秦亡民」の辰韓(のち新羅)への移住を記録すること、『書紀』がスサノオまたアマノヒボコの新羅渡来を伝えること、『風土記』が伊都県主(北九州王族)を「高麗のウルサンに天下りしたヒボコの子孫」と記すことなど、注意されたい。また紀元前の中国で「秦」国を興したのは、西域(中央アジア~バクトリア)からの流入民であったことにも注意。
*参照→〈★漢族の形成〉〈★魏志東夷伝の世界〉

◆「3子」なのか?「2子」なのか?
 次に表の右欄です。この「子どもたち」もグチャグチャになっているが、この神話を因数分解すると、5つの要素に開けます。

海辺で火焚き出産する隼人の習俗
②「火中から3貴子誕生」の古神話(金属文化と関係し、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの3貴子誕生もこの類型)。
③天光神ホノアカリを祀る尾張=和珥=海部=出雲系神話。
王祖をヒコホホデミとする畿内伝承。
⑤「海神・山神の競争-結婚-離別」の古神話(類話は朝鮮・江南のほか、北欧の海の父神ニヨルズ&山の女神スカジの結婚-別居譚もこの系統)。

 ②が全体のフレームだが、そこへ③④を詰め込んだため、彼らの名前は収拾がつかないほど錯綜してます。
 さらに②「3貴子出生」の後に、⑤「海・山の2兄弟抗争」を接続したため、兄弟数も揃っていない。最後の[一書第八]だけが「2貴子出生」としているのは、②を⑤につなぐための工作です。

 こうして見ると、『書紀』の記述はグチャグチャだけど、かえってその不整合に価値があることもわかるでしょう。至る所に「材料」をツギハギした痕跡が見えているため、そこをよく見て解読すれば、きれいにパーツに分解することが可能なのです。

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2008/01/23

『風土記』伝説量の偏りは何を意味する?-書紀解論(三十)

『風土記』から諸国の伝説をざっと見ると、それらに関連づけられた王名には、たいへん偏りがあることに気づかされます。
 ここでは、前回で算出したデータをもとに、その全貌をつかんでみます。

◆「王の伝承」はⅡ期に集中!
 まずは表12をクリック拡大して見てください。前回データの総計を、神武~孝謙までの46王代に書き込んだものです。「王なみ」の5人(ヤマトヒメ・ヤマトタケル・神功・ウジノワキイラツコ・聖徳)もあわせて、全部で51名義、281項目を数えました。
(*倭姫と倭迹迹姫はともに「ヤマトヒメ」に合算した。その原像が同一と推定したため)
 便宜のために、全体をⅠ~Ⅶ期に区分しました。

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 これは全く面白い! 「王の伝承」の極端な偏りが、これで一目瞭然でしょう。
 それはⅡ期に集中しており、このパートだけで181項目(全体の64%!)を数えます。とりわけ景行(58)・応神(51)・神功(30)・ヤマトタケル(22)は突出しており、この4人だけで過半数(57%)です。
 これより以前が少ないのは「昔のことだから…」とも言えそうだが、しかし後の時代も少ないのは、一体どうしたわけなのか?

◆Ⅰ・Ⅲ・Ⅳ期-「空白」目立つ
 Ⅰ期を見ると、『書紀』で無内容の「欠史八代」が、こちら『風土記』においてもほぼ無視されていることが目を引きます。この期で有意な存在は、神武・崇神・垂仁・ヤマトヒメの4人のみです。
 Ⅲ期の5人は、僕の見立てじゃ、中国史書に記された「倭の五王」に相当します。ここは雄略が2件あるだけ。「伝承を遺した」という点からは、壊滅です。
 Ⅳ期も少なく、ことに前半4人は全滅のありさまです。

◆Ⅴ・Ⅵ・Ⅶ期-画期となる4人の王
 Ⅴ期には、推古・聖徳ら有名人がいるけれど、総数14でやはり少ない。その2人よりまだ欽明(7)が目立っています。
 Ⅵ期では、孝徳(14)が5位と大健闘、天智(7)の倍を数えます。遠山美都男氏も説いているよう、「大化の改新」の真の主役は孝徳なのです。『風土記』における伝説量は、この事実を正直に反映している。
 Ⅶ期天武(12)の独り勝ち。天武は「壬申の乱」クーデターの主役であり、国史編纂の企画者でもあったから、多いのは当然です。ただし見方を変えるなら、その天武でも6位どまりだ。景行・応神らとは比べものになりません。

 Ⅴ・Ⅵ・Ⅶ期を通覧すると、欽明・孝徳・天智・天武と、政治史で「節目」となった王たちに伝説量が多いのがわかります。納得ゆく結果ですね。
 しかし「Ⅱ期の王たち」が、伝説量において彼らをはるか凌駕するのは、一体どうしたわけなのか? 既存の古代史学では、これは解けないミステリーではないでしょうか?
 この疑問に、次回でいったん結論を出してみましょう。

【追記】
 棒グラフも作ってみました。「Ⅱ期の伝承」の厚みがいっそう鮮やかにわかるでしょう。適当なソフトがなく、手作業で作成したので、やや不揃いで見づらいのはご容赦を。
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2008/01/20

『風土記』の人気王ランキング-書紀解論(二十九)

 いよいよ『風土記』そのものに立ち入ります。はじめに『風土記』の簡単な紹介から入りましょう。

◆『風土記』とは何か?
 詳細は専門書に譲るとして、『風土記』の要点だけまとめておきます。

①『風土記』は、8Cの律令体制下に企画され、全国で編纂された。
だが諸国から提出された『風土記』は、書式・水準ともバラバラであったため、中央では総編集をあきらめて、「お蔵入り」にしてしまった。
そのまま諸国『風土記』の大半は散失した。いまに遺るのは、【常陸・播磨・出雲・豊後・肥前】の5国ぶん、それといくらかの断片【逸文】のみである。

 要はお役所の「企画倒れ」で、せっかく全国から集めた史料が、大半ムダになったわけ。昔も今も役人の仕事といったら…。
 けれども見方を変えるなら、これにはプラスの面もあります。それというのも、現存『風土記』は、中央が「操作をあきらめた史料」だからです。すなわちここには、『記・紀』に整合される以前の、古い伝承が反映している。そのため『風土記』の史料価値はたいへんに高いのです。

◆【5風土記】の人気者たち
 いま内容まで扱えないので、『風土記』に誰がよく登場しているか?-という問題だけ、目を向けます。
 すでに前回述べたよう、人名の混乱などあってメンドーなのだが、大ざっぱに登場する王たちを数えてみました。おコタに入ってミカンを食べながら「正」の字を書いて数えたのです。あんまり正確じゃないだろうが、まあ目安にはなるでしょう。
 まず【5風土記】の集計です。はやくもたいへん面白い結果が出ました。
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【常陸】では、倭武(ヤマトタケル)の登場回数が抜けています。ただ彼は「巡り歩いて地名をつけた」って記事ばかりで、英雄的ではありません。先住異族を討つ英雄としては、別にクロサカ命・タケカシマ命らがいるのです。

【播磨】では、「品太天皇」と呼ばれる応神が圧倒的! なんと43回です。神功・景行・仁徳と、彼に近縁の王も多い。総数85も最多です。

【出雲】は、ある意味すごいです。ここには総数わずかに5! 記事の長さから考えても、この「王不在」は徹底的です。また登場する神々も、『記・紀』とは違った神名や神話だらけ。つまりは中央神話を無視して、「出雲の自立性」をブチ上げてる。これはほとんど「独立宣言」に近いものです。
 たぶんこんなの出しちゃったから、出雲国造は、中央からの懲罰(反省文)として、〈出雲国神賀詞〉なんてのを押しつけられてしまったのでしょう。〈出雲国神賀詞〉は、出雲の神々も中央王権にご奉仕してます…って内容の誓約書です。

【豊後】【肥前】は、ともに景行が突出です。

 全体を見て気づくのは、どの書にも必ず「巡り歩いて地名をつけたシンボル」的な人物がいることです。その役に【常陸】ではヤマトタケル、【播磨】では応神、【豊後】【肥前】では景行が配されてる。【出雲】だけは毛色が違って、スサノオ神やオオナムチ神がシンボルとなっています。
 さらに彼らの立ち寄り先には、なぜか「池・泉・井戸」が目立ち、そこに「鳥-大樹-舟」信仰連合がよくくっつく。「マナ」「サカ」「キ」「オホ」「タマ」「コト」といった地名が頻出することも要注意です。

◆【逸文】も集計しました
 今度は【逸文】カウントです。西日本での「神功・景行人気」が見て取れます。神武は日向出身のはずなのに、まるきり無視されてるってことも、見落としえない事実です。
 やや意外なのが【東海道】のヤマトヒメ。これは伊勢の伝承記事があるせいです。
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 それにしても…じつに奇妙だとは思いませんか?
【5風土記】また【逸文】を通算して、「伝説を遺した王」は、同じメンツばかりです。それはとりわけ「崇神~景行~仁徳」の間に集中する。
 いっぽう「履中~安康」や、「清寧~武烈」の間など、誰も一度も登場しません。
 これは何を意味しているか? さあて、次回に続きます。

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2008/01/18

『風土記』から見る古代の王名-書紀解論(二十八)

 前回までの27回、『書紀』前半の神話・歴史と、その原型であったろう【原伝承P】について、あれこれ仮説を組んできました。
 ここからちょっと目先を変えて、『風土記』に注目してみます。
『風土記』も官制ではあるけれども、『記・紀』の正式国史とは違った伝承が多く見られ、たいへん貴重な史料です。『書紀』の背後を考えるとき、『風土記』への目配りは欠かせません。

◆古代の「王名」はメンドくさい
 さて『風土記』を通読すると、まず気づくのが、王名の「複雑さ」です。
 たとえば『書紀』なら「景行天皇」と簡単に記すところ、『風土記』ではこうなります。

A)大帯日子天皇・大足彦天皇
B)纒向(まきむく)の日代宮の治天下天皇

 また「神功皇后」はこんなふうです。

A)大帯日売/息長帯日女・息長足比売・気長足姫

 さらに「応神天皇」はこんなふうだ。

A)誉田天皇・品太天皇 (ホムダ天皇)
B)軽島の豊明宮の治天下天皇

 ここから気づくことが、いくつかあります。
 一つは、「景行」とか「神功」とかのオクリナ=諡号は、『書紀』制作期の7-8Cからつけるようになったもので、それ以前には存在しなかった…という事実です。
 また「大足彦天皇」は【大-タラシヒコ】であり、「大帯日売」は【大-タラシヒメ】であって、要は「タラシ家の偉大な男・女」だということです。これらの名は、個人固有の名前というより、もっとずっと曖昧な「称号」です。

◆「宮居の称号」が示すこと
 さらに注意が必要なのは、B式の名前です。多くの王はこのカタチで呼ばれており、例えばこんなふうになる。

B)纒向の珠城(たまき)宮の治天下天皇 →垂仁
B)難波の高津宮の治天下天皇 →仁徳
B)難波の長柄豊前(ながらとよさき)宮の治天下天皇 →孝徳
B)飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の大宮の治天下天皇 →天武

 これは武将を「お屋形様」、その夫人を「御台所」、僧侶を「坊主=坊堂の主」と呼ぶのと同じで、居場所で人を呼ぶやり方です。昔はじかに貴人の「個人名」を呼ぶことは禁忌であり、そこでこんな呼び方が用いられた。頼朝の「鎌倉殿」とか、『源氏物語』における「弘徽殿の女御」「六条の院」なんて呼び方も、同じ例です。
 すると…また二つ気がつきます。
 一つは、このような名称法では、「王名の混乱」は避けられないということです。なにしろ個人名が知られないわけだから。
『源氏物語』だって、よく文脈を抑えていないと、その時の「弘徽殿の女御」が誰なのか、わからなくなってしまいますね。つまりB式「居所の称号」では、個人が特定できないのです。

 もう一つは、B式名にある「**宮」は、かれが王として治世した証だということです。そこで宮名を持たない「神功」には治世もなく、逆に「桐原の日桁の宮」に居たというウジノワキイラツコは王であったと見なせるわけです。

◆『風土記』の登場王の偏り
 古代(おそらく天武以前)には、まだオクリナも「天皇号」も存在してなかったので、「景行天皇」や「神功皇后」は、実際にはそう呼ばれてはいなかった。これは錯覚しやすいが、忘れてはならない点です。
 また『風土記』に登場する王名には、著しい偏りが見られることも特徴です。早い話、「景行・ヤマトタケル・神功・応神」らは何十回も現れるのに、一方で全く話題にならない王も大勢いる。これは何を意味しているか?
 次回はこの点を詳しく突っ込みます。

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2008/01/15

『日本書紀』の制作秘密-書紀解論(二十七)

 前回は、2C後半に北九州・畿内の2王統が覇権を争い、その史実が口承叙事詩=【原伝承P】として伝えられた…と書きました。
 今回は、それがいかに『記・紀』の建国神話へ変換されたかを、考えます。

◆『書紀』制作の背景は?
【原伝承P】の舞台から4世紀後、天武帝~持統女帝~藤原不比等らを軸とする王朝体制のなかで、「国史」が編纂されました。
 いったい中華文明では、「国史」を持つことは文明国たる条件であり、そこで我が国でもそれに倣って、文明国家の体裁を整えようとしたわけです。すでに百済や新羅にも「国史」はあったし、我が国がそれを持たないわけにはいかなかった。
 さてこの「国史」編纂に当たっては、以下のことが重要な目的であったと考えます。

壬申クーデターによって成立した天武王権を、「アマテラス子孫=日の御子」として正統化する。
それまでの「治天下大王」を、神にひとしい「天皇」に格上げする。これは神聖不可侵で、中華の「皇帝」とも対等なものとされた。
同じく「倭国」を「日本国」に改め、中華(唐)と対等、三韓(高句麗・百済・新羅)より上位とする。

 ①については、それまでアマテラスは二流の皇祖神(北九州王家の祭祀)でしかなかったが、それが天武~持統代において、正統の皇祖神に格上げされたということです。
 それから②は、天皇家(大王家)を唯一神聖として位置づけたことになります。これは【原伝承P】の主題であった「2王統の相克」を、隠蔽しなければならなかったことを意味します。
 最後に③は、『記・紀』において年次の引き延ばしが要請された理由です。日本は三韓より上位であるから、その起源も、三韓の伝建国年(いずれもBC1世紀)より古く設定することが求められた。

◆【原伝承P】はいかに改変されたか?
 はじめに【原伝承P】の改変を企図したのは、天武帝であったでしょう。ただその作業を具体的に指揮したのは、次の二人であったと考えます。

●中臣連大嶋-神祇を司る中臣氏の氏上(うじのかみ)で、天武十年、『帝紀・旧辞』の編纂を命じられた。稗田阿礼に建国史の「語り覚え」が命ぜられたのも、これと同じ時である。
●藤原不比等-大嶋のまたいとこで、おそらくその修史の業を継承した。日本国の礎を設計したプランナーでもある。『記・紀』ともに彼の政権下で完成した。

 まず大嶋が作業に着手し、彼によって「高天原~アマテラス~天孫降臨」という原設計がなされました。これは①にかなったものです。しかし彼は持統七年(693)に死んでしまう。
 後を継いだのが不比等です。彼には【原伝承P】の主題である「2王統の相克」を隠蔽すること(②)、また【原伝承P】を水増しして建国年を引き下げること(③)が求められた。
 ここで不比等は、水増しのために、おそらく『新羅古記』を参考にしました。『新羅古記』は、ほんらい「朴・昔・金」の3王家が同時並立していたのを、「朴→昔→金」という連続3時代に替えたのです。いわばヨコ並びをタテに積み上げ、時代の引き伸ばしをやったわけだ。
 不比等も、まず【原伝承P】から3つの異版を作出して、それをタテに連ねたわけです。これが【神話M/上古伝L/改版史実R】の3重複構造です。
→★十二の「構造対応表」を参照

◆不比等の作為を解析する
 さらに不比等は、大まかに、以下のような操作・改編を施したと考えます。

1)畿内から出て、西日本を統合し、ついには横死を遂げたオオタラシヒコ大王(景行)。彼には豊かな伝承が残っていた。そこから一部を切り取って、「征服英雄」ヤマトタケル像と「横死した王」仲哀像が分離された。

2)ヒミコ(神夏礒媛)トヨ(神功)らの「北九州王家」の存在は、「王統一系」の主張のためにはまずいので、あれこれさんざん操作して、彼女らの正体をわからなくしてしまった。

3)「トヨの東征→神武東征」・「応神代の大乱→崇神代の大乱」といった具合に、【原伝承P】の諸事件を、より前代の事件として書き換え移植した。

4)二大古墳の「主」が誰かは、もうよくわからなくなっていたが、【原伝承P】で有名な応神・仁徳に振り当てた。

5)その後には、中国史書との対応で、「倭の五王=履中・反正・允恭・安康・雄略」がハメ込まれた。実際には、仁徳~五王の間には相当の開き(僕の推算では約百年)があり、ここには「忘れられた王」が何人もいたであろう。

6)五王~欽明の間も、おそらく王名だけが伝わり、伝承記憶はスカスカだった。不比等はここに、歌謡(たとえば允恭や武烈の恋歌)だの古神話(たとえば顕宗&仁賢の貴子流離譚)だのを詰め込んで、何とか「空白」を埋め隠した。

7)さらに五王以降のパートが、なぜか半島記事だけ詳しいのは、朝鮮史書に依拠した部分が大きいせいだと考えられる。実際たとえば[欽明紀]を読んでいると、欽明よりも、百済聖明王・余昌王子のほうが活躍している。これは顕著な特徴である。

8)孝徳代は一つの画期で、ここから日本の国内記録が詳しくなる。孝徳は多くの改革を成した王で(ただし中途で挫折した)、「大化の改新」のほんとうの主役だった。

 ここまで僕が述べた仮説は、『風土記』を援用することで、さらに補強が可能です。そこで次回から『風土記』へ分析を移しましょう。

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2008/01/13

仁徳クーデターと【原伝承P】-書紀解論(二十六)

 この回は、前回で書き残したことの補説です。

◆仁徳が「儒教王」のわけはない
 まずオオサザキ(仁徳)に関しては、注意しておくことがあります。『書紀』は彼を「儒教仁君」と性格づけ、まさしく「仁・徳」と名づけているが、これは全く虚構であろう-ということです。
 古代(僕の推算ではAD300頃)の日本人が、中国儒教の倫理によって行動したなど、まったくバカげた話だからです。
 実際にはオオサザキは、先王ウジノワキイラツコ(宇治天皇、応神の子)を殺して王位を奪ったのであり、古代の王権争いじゃ、ごく「ふつう」の行動でした。
 しかし『書紀』の制作者らは、王統の混乱じたいを隠蔽しようと図ったので、この箇所を中国儒教ふうの「美談」で偽装したわけです。具体的には、中国伝説の聖王である「尭・舜・兎」の禅譲~仁政エピソードを、改変使用したわけですね。
 また見方を変えるなら、この工作は、『書紀』制作者らがつよく中国儒教に染まっていたことを示しています。それは律令制を基礎づける「新時代の規範」であり、具体的には、大陸文化に傾倒していたという孝徳~天武の代あたりから受容されたものでした。
 ウジノワキイラツコが王位を譲るため自殺した-という[仁徳紀]の筋書きは、いかにも無茶な「作りすぎ」で、美談を超えてグロテスクです(まるで中国の『二十四孝』を見てるようだ)。

◆「仁徳クーデター」がオチだった【原伝承P】
 これまでたびたび述べてきたよう、僕は『書紀』前半部の「隠れた原版」として、【原伝承P】の存在を想定してきました。
 察するところ、【原伝承P】の主題は、「X-オオタラシヒコ系」「Y-ナツシ~トヨ系」という2王統の相克であったはずです。その大枠は次の通り。

Ⅰ)Xの悲劇-西日本を統合した大王オオタラシヒコの密殺と、その3王子たち(ワカタラシヒコ・イオキイリヒコ・オシノワケ)の分裂。そして畿内覇者となったオシノワケ王子の悲劇死
Ⅱ)Yの悲劇王子妃トヨの東征と惨敗。彼女は武内宿禰に救われ(利用され)、政権中枢に迎えられたが、最期は「応神朝」の混乱で変死した。
Ⅲ)Xの復活-「応神朝」の崩壊により、東国に逐われていたイオキイリヒコ孫=オオサザキが決起して、政権を奪い取った。これにてX王統が復活し、「叙事詩」はめでたくオチがつく。

◆それは「鎮魂の叙事詩」だった
【原伝承P】が、具体的にどんな性格のものであったか、もう少し突っ込んで想像しましょう。
 それは「文字なき口承詩」であり、専門の「語り手」によって謳い継がれ、祭りの場では演じ舞われていたはずです。こうした「口承詩」のあり様を考えるには、たとえば以下のようなものがよい例です。

●アイヌの神謡「カムイユーカラ」
●シベリア少数民族の口承詩-たとえばツングース族の英雄譚。
●古代ギリシアの『ホメロス叙事詩』
●スキタイ系オセット族の『ナルト叙事詩』
●朝鮮半島の鎮魂(鎮恨)歌謡「パンソリ」
●中世日本の『平家』語り『太平記』語り

 仮に日本の古代人が、中世人と似た感性を持っていた-と想像するなら、哀切な『平家』語りと同様に、【原伝承P】も悲劇詩であったでしょう。つまり「Xの悲劇」と「Yの悲劇」が、全編の中軸であったはずだ。それは「歴史」でも「娯楽」でもなく、宗教的な鎮魂(鎮恨)詩として物語られたに違いない。

 その鎮魂叙事詩=【原伝承P】から、どのように『書紀』前半が組み立てられたか? 次回は「まとめ」的にそのことを考えます。

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2008/01/10

仁徳のクーデター-書紀解論(二十五)

 なんとシリーズ25回目。今回は「仁徳クーデター」の解説です。

◆オオサザキの政権奪取
 すでに〈★十六・応神朝と東国の脅威〉で、「不安定な応神政権」「東国に遷って雌伏したイオキイリヒコ一党」の対照を見てきました。
 また応神朝が大乱不治に陥って、ついには崩壊したさまも、〈★二十一・崩れゆく応神朝〉で見てきました。
 では応神朝の崩壊時には、いったい何が起こったか? 
 仁徳=オオサザキは「イオキイリヒコの孫」というので、彼の即位までに何があったか、推測するのは容易です。つまりそれは、

有力王子オオヤマモリは謀殺された。
大王ウジノワキイラツコも、追い詰められて自殺した。
2人が始末されたのち、オオサザキが即位した。

 -というシナリオです。
 このとき自殺した王とは、ウジノワキイラツコです。彼を「宇治天皇」と[播磨国風土記]は呼び、「桐原の日桁の宮」に宮居した-と[山城国風土記逸文]は伝えている。この両記事は、[仁徳紀]の公式記事とは異なって、ウジノワキイラツコが王位に就いていたことを証拠だてます。
 すなわちウジノワキイラツコは、のち壬申の乱(天武のクーデター)で殺され斬首された「大友王子=弘文天皇」同様に、『書紀』から抹殺された王なのです。

◆クーデター関連記事
 また以上に関連して、次の記事も重要です。

④ホムツワケ(応神=ホムダワケの分身)が「もの言えぬ王子」であった期間は、30年[垂仁紀]。
⑤日向泉長媛は、応神妃として2子を産んだ[応神紀]。
⑥日向髪長媛は「美人」と名高く、応神の妃として迎えられた。だがオオサザキ王子(仁徳)が彼女を欲しがり、ついに自分の妃に収めた[応神紀]。
仁徳代に、山陰5国(出雲・伯耆・因幡・但馬・隠岐)の国造が一斉逮捕され、播磨で囚役させられた[播磨国風土記]。

 ④は「応神朝」の存続期がほぼ30年であったことを暗示している-と考えます。すると、「トヨの遣晋使」が266年であったから、「仁徳クーデター」は290年-300年あたりと推定できます。
 ⑤⑥は、つなぎ合わせれば、クーデターをやってのけたオオサザキが、「先王の妃」を奪ったことを示している-と考えます。これはじつは「応神の妃」でなく、「ウジノワキイラツコ王の妃」であったでしょう。
 ⑦は人事粛清です。前政権を打倒した東国勢のオオサザキにとって、競合する出雲勢は「脅威」であり、思い切った弾圧処置が採られたのです。

◆仁徳と武内宿禰の関係は?
 さらに奇怪なのは次の記事です。

⑧「応神の子」が生まれた時、産殿にミミズクが飛び込んだ。同日「武内宿禰の子」も生まれ、産屋にミソサザイが飛び込んだ。これを奇瑞として、二子の「交換名づけ」が行われ、「応神の子=オオサザキ」・「武内宿禰の子=ツクノスクネ」と命名された[仁徳紀]。

 ⑧は「鳥霊信仰+名前の交換」のセット説話で、〈★二十二・応神の出自疑惑〉で扱ったホムツワケ=ホムダワケの重複ミステリーにそっくりです。これは何を意味しているか?
 だいたい武内宿禰こそは、応神朝の中枢人物であったはずで、クーデターをやってのけたオオサザキと親しい関係が語られるのは、スジに合わない。これはまったく奇怪な記事です。
 だがこの疑問は、その前にある⑨記事を見ることで、氷解するように思われます。

武内宿禰が九州に出ているとき、その弟・甘美内宿禰(ウマシウチノスクネ)が訴えた。「武内宿禰は、九州と三韓をあわせて謀反を企んでいる」と。そこで武内宿禰に討ち手が向けられたが、彼はかろうじて死地を逃れ、朝廷に出頭して弁明した。是非が決めがたかったので、両者に神裁(クガタチ)が課せられた。その結果、武内宿禰が勝ち、甘美内宿禰は失脚した[応神紀]。

 ⑨記事は、応神朝がグチャグチャに崩れてゆくなか、武内宿禰までが失脚しかけていたことを教えてくれます。これから推察するならば、「仮想シナリオ」は、こうなります。

1)応神朝が壊れてゆくなか、身内どうしの争いで、武内宿禰さえも立場が危険となった。彼は北九州+半島系勢力の援護により、かろうじて死地を脱した。
2)武内宿禰は、不安定な自派の王権に見切りをつけ、密かに正統の東国勢と結託した。そして有力王子(オオヤマモリ)と大王(ウジノワキイラツコ)を破滅させ、東国からオオサザキを迎え入れて擁立した。かくて彼は「新王・仁徳のゴッドファーザー」として地位を維持した。

 けっきょく応神朝は「正統性」なきがゆえに崩壊し、東国へ逃れていた「正統」オオサザキ王子が大王位に返り咲きした、ということです。

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2008/01/07

『書紀』にはトヨが11人いる!-書紀解論(二十四)

『日本書紀』の分解作業も、とうとう24回目。よっぽど「もうテーマを変えようか」と思いましたが、何とかもう少し頑張って、キリのいいところまでやり終えます。

◆バラバラに分解されたトヨのピース
 今回は、『書紀』におけるトヨの分身たちを整理します。列記すると、次のようです。
【M-神話】
①イチキシマヒメ。②ワカヒルメ。③万幡豊秋津姫(栲幡千々姫)。④豊吾田津姫。
【L-上古伝】
⑤神武+宇佐津姫+イツヒメ。⑥吾田媛。⑦サホヒメ。
⑧倭迹迹日百襲媛。

【R-改版史実】
⑨神功(オキナガタラシヒメ)。

 全部で「11人いる!」のだが、⑤は三つ揃いでセットなので、ここでは9人として整理します。この一覧が表6です。クリック拡大で見てください。

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 9人の全員が、何らかの属性重複で結ばれていることがわかるでしょう。重複が多い者ほど、トヨ原像に近いのだと考えます。また③④は、直接「トヨ」の名を明示します。
 便宜のために、これまで解説ずみのページを示しておきます。

  →★七【スサノオとアマテラスの誓い比べ】
  →★八【アマノオシホミミの妃は何者か?】
 ⑤-⑥-⑨ →★十三【神功=神武=吾田媛の同一性】
 ④-⑦-⑨ →★二十三【応神の出自疑惑Ⅱ】
  →★二十一【崩れゆく応神朝】

 また表7は、トヨに影のように寄り添う武内宿禰の分身たちです。

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◆「ワカヒルメ」とは何者か?
 じつは上に挙げたうちには、僕が今まで見落としていた像が一人います。それが②ワカヒルメです。彼女について解説しましょう。
 スサノオが高天原で大暴れして、馬を機屋へ投げ込んだとき、[神代上紀・本文]は、
アマテラスが身体を損なった」
 としています。これからアマテラスは驚き怒って、岩屋籠もりをしてしまう。ところがこの部分が[同・一書第一]では違っていて、
ワカヒルメが傷つけられて死んだ」
 としています。こちらで被害に遭っているのは、アマテラスに仕える織女=ワカヒルメです。さらに『古事記』はこう書き換える。
織女が女陰を傷つけられ死んだ」
 この神話には前にも触れたことがあり(→★【日本神話の北方要素】)、「男神=馬が女神を犯す」「女神が隠れて闇になる」というスキタイ型神話や、「弟神=月が姉神=太陽を犯す」というシベリア=エスキモー型神話など、複数の要素習合が見て取れます。
 ともあれ[本文]と[一書第一]の対比からは、アマテラス-ワカヒルメのつよい親和性が明らかです。
 そもそもアマテラスの別名が「オオヒルメ」なのだが、これは「大なる日の巫女」の意で、すると彼女は「神」でなく、その巫女だってことになる。上田正昭氏らが注目するよう、これはちょっとしたミステリーです。
 しかし、僕の考えじゃ、これは不思議でも何でもない。なぜならオオヒルメとワカヒルメの原像は、

●オオヒルメ(大・日巫女)-北九州女王ナツシ。『書紀』の神夏礒媛
●ワカヒルメ(若・日巫女)-ナツシの後継者トヨ。『書紀』の神功

 -であるからです。この傍証は二つあります。
 一つは、『書紀』はワカヒルメを後にもう一度だけ再登場させているが、それが神功東征の段であることです。このとき神功がワカヒルメを祀ったのが、生田神社の起源だという。
 もう一つは、②ワカヒルメ=織女の「女陰を突かれて死」という異常な死にざまが、⑧倭迹迹日百襲媛とそっくりであることです。
 これから「②ワカヒルメ-⑧倭迹迹日百襲媛-⑨神功」という関連が浮き彫りになるわけです。

◆トヨの生涯を復元する
 分身像①~⑨をつなぎ合わせれば、トヨの生涯が復元できます。
 大筋はすでに解説ずみなので、ここではまとめとして表8を掲げておきます。Ⅰ~Ⅶの全段にやはり重複が読み取れます。

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 また表8の全体を、⑨[神功紀]と対比すれば、『書紀』の制作者たちが何を隠したかったかが、わかるでしょう。

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