仮説【ヤマト創世記】-書紀解論(一)
今回からは、まるごと「仮説」と断って、『記紀』神話の形成までを考えます。
この作業には「邪馬台国→ヤマト王権」の形成仮説も必要だが、これは以前に〈★邪馬台国〉論で書いてるので、そちらを参照してください。
◆北九州ヤマトと畿内ナラ
『書紀・景行紀』と『魏志・倭人伝』を照合すれば、3C半ばの北九州に〈女王国連合〉が存在したことは明らかだと考えます。主幹はヤマト国(甘木)・ミヌ国(吉野ヶ里)・ナ国(博多)らで、伽耶系の「稲作+金属文化」です。ヤマト国の女王ナツシ(『景行紀』のいう神夏礒媛)が、彼らの盟主に担がれて、宇佐に拠点を置きました。
『倭人伝』は彼女を「ヒミコ=日の巫女」であったとしているので、ここで【太陽=女王権】の結合があったのだと推測できます。
また『景行紀』は、女王が〈連合〉を裏切って、「鏡・剣・玉=三種の神器」もろともにナラ王オオタラシヒコ(景行)に投降したと伝えています。その背景には、北九州ヤマト王家と畿内ナラ王家が、「扶余-伽耶系の同族」として親しい関係にあったことが推測されます。『倭人伝』は両者が「同種」だと伝えている。より突っ込んで言えば、こうなります。
【北九州】1C以降、南韓伽耶から先着した勢力の連合体。中部九州の縄文山民(クナ国=ククチ族)や南九州の海民(隼人族)とは敵対した。
【畿内】はじめ北九州からの東進フロンティア。のち2~3Cに、南韓伽耶→出雲→畿内へと後発者が多く渡来し、大勢力に発展した。
3C半ばには、畿内ナラに「大征服者」が出現して、東国(東海-美濃-越)から西国(出雲-吉備)までを押さえました。これがオオタラシヒコ=オシロワケ王(景行)です。
ナラの脅威を恐れたゆえに、ナツシは前線の宇佐に構え、また魏に遣使して支援を要請したのです。
だがナラ王オオタラシヒコは、ついに北九州へも襲来、ヤマト女王ナツシを威圧して降しました。さらに7年の戦争を経て、〈連合〉残軍を平定しました。
◆襲国「隼人」と王家の同盟
この7年の戦争で、オオタラシヒコに最終勝利をもたらしたのは、隼人族との同盟でした。妃「日向のミハカシビメ」は、このとき婚姻政策により、隼人族から得たものでしょう。隼人豪族から妃を出すのは、この後にも例があるが、その習いはこのとき始まったと思われます。
8C以前の隼人族は、オーストロネシア系と考えられます。【失くした釣り針】【蛇身出産】らの南九州=オーストロネシア神話は、この同盟によって王家に取り込まれたものと考えます。
◆オオタラシヒコ王、帰還せず
ところで、東国から九州までの征服に多年明け暮れたオオタラシヒコは、そのあと畿内に安住したのでしょうか?
どうも、そうとは思えません。彼の征服事業を象徴した(隠蔽した?)と思われるヤマトタケルは、帰還を果たせず死んでます。なお気になるのはタラシナカツヒコ(仲哀)の伝承です。彼の伝記は、「九州遠征」の途上から始められて、しかもすぐ香椎で変死している。
これから推測するならば、征服に燃えるオオタラシヒコ王は、北九州に「遠征朝廷」を留め置いて、なお南韓への進出戦争を始めたのじゃないだろうか? そしてその渦中で「変死」したのが、『仲哀紀』として別記された…と思えるのです。
『記紀』は「景行-成務-仲哀-(神功)-応神」という王統譜を伝えてます。だが成務=ワカタラシヒコは長寿といいながら(『書紀』百七歳、『古事記』九七歳)、伝承に中身がなく、その王代は存在しなかったと見なすべきです。
そこで僕は、「景行-(死後動乱)-応神」という展開を想定する。史実は2王代であったものが、4ないし5王代に増幅されていると見るわけです。この見方を採るならば、従来「謎」とされていた、多くのことが整合できる。
これについての解説は、これからおいおい進めてゆきます。
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