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10/30/2007

出雲臣氏の「正体」は?-書紀解論(十)

『書紀』神話の【天孫降臨】を解読する5回目です。まず便宜のため、もう一度、謎を秘めた「ハズレ3人」を列記します。
①アマノホヒ-出雲で背命。出雲臣氏の祖となった。
②アマノワカヒコ-出雲で背命。王たらんとし、抹殺された。
③アマノオシホミミ-「降臨母子」の消された夫。

 前回では、じつは②=③は同一人物、つまり史実におけるワカタラシヒコ王子の分解像であることを示しました。
 今回さらに、もう一つの結論を提示します。①も②③と同一人物だ-ということです。

◆ワカタラシヒコは生きていた!
 神話では、②アマノワカヒコは抹殺されます。けれども史実のワカタラシヒコは、このとき死ななかった-と僕は見ます。推測すれば、こういうことです。

 ワカタラシヒコの離反に驚き、重臣団は彼へ刺客を差し向けた。「暗殺成功」の誤報があったのかもしれず、重臣団は「ワカタラシヒコは死んだ」として葬式までやってのけた。ところが彼は生きていたとわかったので、葬儀はブチ壊しになってしまった。大いに慌てた重臣団は、「生きていてももう別人だ! もはや彼は王族ではない!」と押し通した…。

 これが②の【葬儀混乱】伝承の真実だと考えれば、きれいに話は通ります。そして出雲に存続したワカタラシヒコ子孫の説明をつけるために、神話はそれを、「別の背命者」①アマノホヒ子孫だ-と言ったわけです。

◆鍵を握る「タケミクマ=武振熊」
 以上の推理を補強するため、【天孫降臨】のいま一人の登場者、タケミクマ(武三熊)に焦点を当てましょう。神話では、彼は①アマノホヒとともに背命し、そのまま和邇・海部氏祖になったという。
 構造的な一致と名前の酷似から、このタケミクマの「正体」は、史実【神功東征】の武振熊と見て間違いない。
『古事記』によれば、武振熊は、「畿内叛軍を率いたオシクマ王」を破る大功を挙げています。彼は計略でオシクマ軍に「偽降」したあと、とつぜん彼を襲って倒した-というのです。
 ここで僕の仮説に沿って、タケミクマ=武振熊を接続して考えれば、

ⅰ)彼ははじめワカタラシヒコとともに出雲で背命し、
ⅱ)その後、武内宿禰とともに、畿内オシクマ軍を「裏切り撃破」して帰順した。
 -というシナリオが描けます。

◆大王死後の「3極戦争」
 以上の仮定を組み込んで、史実の復元を続けましょう。
 ワカタラシヒコは、出雲で自立して「王」を名乗り、北九州にある遠征朝廷に背きました。
 それまでオオタラシヒコ大王(景行)の変死は秘されていたが、この騒動が起こったために、大王の死はとうぜん明らかになってしまう。
 これから畿内にあった第二王子イオキイリヒコ&第三王子オシノワケ(カゴサカ王&オシクマ王)も、挙兵決起に踏み切りました。重臣団の非を鳴らし、王位奪取を狙ったわけです。まさしく「3極鼎立」の様相です。
 この状況を整理すると、

【北九州勢】-もとはオオタラシヒコ大王の「遠征朝廷」。王子妃トヨ(旧・北九州ヤマト王女)を旗頭に担ぐことで、畿内重臣団九州豪族(武内宿禰ら)が結合した。
【出雲勢】-重臣団から離反した「王」ワカタラシヒコ&武振熊の勢力。ナラ王家の出身母体である出雲豪族がこれを支えた。
【畿内勢】イオキイリヒコ&オシノワケ王子の畿内勢力。彼らは吉備から東国まで手を回して、大兵力を糾合した。

 容易ならざる三すくみです。ただし三者は異族ではなく、互いに家族や知人であるため、それぞれさかんに交渉・駆け引きをやったでしょう。
 とうとう北九州勢は、トヨを旗頭に担ぎ上げて東征に討って出たが、畿内勢を率いたオシノワケは、これを河内で粉砕しました。その時点では、オシノワケの勝利は確実に見えたでしょう。
 だがこのとき、北九州勢の「別軍」武内宿禰は、出雲勢を「密約」によって抱き込むのに成功しました。
 そこで武内宿禰+武振熊は「騙し討ち」によってオシノワケを破滅させた。武振熊が協力してくれた見返りとして、武内宿禰は「出雲の安泰・優遇」を認めました。
 推測ばかりになっちゃいますが、たぶんこれだけが、あらゆる材料を整合するシナリオです。
 ワカタラシヒコ子孫=出雲臣氏は王族籍からは削られたが、かわりに「王族なみ」の宮殿や格式を認められた。『神代下紀・一書第二』にあるタカミムスビとオオナムチの交渉記事も、この反映だと見なせます。
「一書第二」の当該部では、オオナムチ(出雲側)の方が強い言葉で正統を主張しており、タカミムスビ(=武内宿禰)もその「道理」を認めている。そのうえでいろいろ甘い「条件」を提示して、出雲はやるから天下は譲れ-と丸め込んでいるのです。『出雲国風土記』意宇郡記事も、これをぴたりと裏書きします。
 のちに対新羅関係が緊張した頃(8-9C)、朝廷はしつっこく出雲に忠誠を誓わせてるが、これも出雲が「半島へのゲート」であり、かつ出雲臣家が「旧王族」であったからです。ひらたく言うなら、出雲王族が新羅と結んで自立決起することを恐れたわけ。

◆ワカタラシヒコと出雲のまとめ
 総括すれば、ワカラタシヒコ像は、神話で3分解されたことになります。彼の先遣と背命は②アマノワカヒコとして書かれ、その「消えた夫」という位相は③アマノオシホミミとして書かれ、背命後の出雲割拠は①アマノホヒとして伝えられた…。
【天孫先遣の失敗】という奇妙にして複雑なエピソードは、大王嫡子ワカタラシヒコの離反・降格を隠蔽するための工作であったわけです。

 なお、ほんらいナラ王家の「神器」は、天羽々矢と天鹿児弓であったと考えられ、これはワカタラシヒコによって出雲に伝えられたでしょう。この「出雲神器」がのち畿内朝廷に没収されたことは、『崇神紀』出雲振根の記事や、『垂仁紀』十千根大連の記事に見えています。実際にはもっと後代の事件でしょう。
 また北九州王家の三神器のうち、八坂瓊の勾玉も、「密約」いらい長く出雲が保持していた可能性があると思う。没収されたのは持統代と推定します。でも、いまこの話に深入りはやめておきます。

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コメント

毎回大変興味深く拝読しております。日本古代史については、どうも作為に満ちた胡散臭いイメージしか持っていなかったのですが、はじめて具体的な仮説イメージをもてたように思います。

ところで、馬の世界史で、遊牧民がもつ集団支配のノウハウについてふれておられました。軍事史においても1000人単位の戦では戦上手の武将が、万単位を動員したばかりに戦線を弛緩・混乱させ不慮の敗北をみたケースに暇がないと思います。(今川義元など)

集団を指揮するノウハウについて、分析した書籍や、弓木さまの見解などお聞かせ願えれば幸甚です。

投稿 てつ | 11/07/2007 07:40 午後

てつさん、初めまして。
大戦力の動員は、ただ指揮系統だけでなく、多くの困難を伴うことだと思います。
大量の食糧補給・武器や装備の調達・船や馬や宿営地の確保・叛乱の予防・民への被害予防・疫病発生のリスク…などなどです。
また一ヶ所に十万人を投入しても、どうせいっぺんには戦えないので、効率が悪くなる点も問題です。これは戦場・戦線の広さとも関係します。

歴史上ほとんどいつも「人口最多地域」であった中国では、「官僚制」こそが大軍を操る要でした。
孫子の兵法では、大軍で威圧して「戦わず」敵を屈することが最上とされています。秀吉が小田原でやったのもこの例です。ただし中国の大軍は、実戦にあまり強くないようで、モンゴルや満族らの騎馬民族にはよく負けました。

いっぽうローマでは、叩き上げの「百人隊長」が軍団の基礎を構成しており、彼らを重んじた「現場主義」で大きな成功を収めました。

古代世界・軍事史の研究では、アーサー・フェリル『戦争の起源』が面白いものでした。大部だが懇切です。河出書房新社から。
日本の戦国史では、ウチの〈信長神話批判〉でもタネ本にしたものを3つ挙げておきます。

藤本正行『信長の戦国軍事学』JICC出版局
鈴木真哉『刀と首取り』平凡社
名和弓雄『長篠・設楽ヶ原合戦の真実』雄山閣

投稿 弓木 | 11/07/2007 11:08 午後

しばらくPCのアダプターが行方不明になり、返信遅れました。ご無礼をお許しください。
参考文献のご紹介、ありがたいです。「戦争の起源」は絶版のようですね。がんばって古書店で探します。ネットの書評を読む限りでは、迂回戦術の起源など、面白い内容のようで楽しみです。
私はハンニバル・バルカが好きなので。

ローマ軍と漢軍の対比、非常に興味深いですね。
ザマの会戦では、序盤にハンニバルが投じた象部隊の突進を、ローマ軍が散兵で交わしていますが、100人隊長規模まで指揮・決断権を細分化した成果なのだろうかなど、素人考えをめぐらして楽しみました。

これからも、ご慧眼を楽しみにしております!

投稿 てつ | 11/19/2007 11:52 午後

てつさんへ。
僕もハンニバルは好きです。モンタネッリ『ローマの歴史』でも、彼の軍才を最高に評価してます。

ザマの場合は、ヌミディア騎兵を率いたマッシニッサの背反が、勝敗を決した-というのが通説です。『ローマの歴史』も、また本村氏『馬の世界史』も、騎兵力の優劣がこの勝敗を決した-と説いています。

なお「象兵」は、意外に役に立たないもので、実戦用よりは威嚇用であったようです。象は制御が難しく、混戦ではしばしば狂走して自軍に損害を与えたそうです。

投稿 弓木 | 11/20/2007 10:20 午後

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