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10/17/2007

武内宿禰・長命の謎-書紀解論(五)

 今編(二)で提示した「★ヤマト建国仮説」の解説を続けます。

◆女王投降と〈三神器〉
『書紀・景行紀』は、オオタラシヒコ大王(景行)が九州へ遠征したとき、真っ先に「一国の魁師・神夏礒媛」が脱走投降してきた-という記事を載せています。彼女は舟に白旗を掲げて現れ、三宝器を掲げて帰順した。さらには自軍の豊前4首長を謀殺するよう、献策さえしたという。
 僕がこの記事を重視するのは、これこそ北九州ヤマト女王(いわゆるヒミコ)の降伏であると思うからです。(→★邪馬台国③
 このとき彼女が持ってきた三宝器は、「ヤツカの剣・ヤタの鏡・ヤサカの玉」と明記され、これこそ〈三種の神器〉でしょう。つまり〈三種の神器〉とは、もともと北九州ヤマト王家の正統の証であり、女王ナツシ(神夏礒媛)は自らそれを引き渡して、ナラ大王の軍門に降ったということです。

◆オオタラシヒコとナツシの「密約」は何か?
 女王ナツシのあまりな裏切りには、どんな理由があったのでしょう?
 なにしろ北九州勢は、女王の脱走投降後も、ナラ軍に7年近く抵抗を続けたのです。兵力では劣っていても、けして弱小ではなかった。
 そこで僕は、大王が何かよほど「よい条件」を持ちかけて、女王を釣り込んだと考えます。それは女王個人の保身のみならず、彼女の王統を保障するものでもあったはずだ。となると、大王は次のよう言ったのじゃないだろうか?

「我らは同じ貴種ではないか。そちらが降伏するならば、我が王子とヤマト王族の娘を結婚させ、その子に王統を伝えよう。されば両王家が一つになり、万事めでたいことではないか」

 これはカスティーリャ王女とアラゴン王子の「結婚統合」みたいなものです。ナラ大軍には勝てないと見た女王は、これはよい条件だと思ったから、三神器もろともに寝返り脱走を決めてしまった。
 なおこのときの【大王vs女王の密約】史実は、別にダブレット変換されて、【スサノオvsアマテラスの誓約】場面にも反映していると考えます。
 スサノオが猛々しく迫ってきたので、アマテラスは「我が国を奪うのか」と武装して迎え立った。ここには大軍をどよもして向かってきたオオタラシヒコと、防衛に身構えたナツシの間の緊張が見えるようです。

◆トヨの復活
 さて両王家の「談合」により、ヤマト王族の少女トヨは、大王の第一王子ワカタラシヒコの妃に迎えられた-と推定しました。
 ところがなんと、このトヨに、数奇なかたちで「復活」の目が出てきます。大王の死後、重臣団が、トヨを自軍の旗頭に担いだためです。
 重臣団のこの行動は、信長死後に秀吉がやったこととよく似ています。秀吉は、信長2遺子(信雄・信孝)らに対抗するため、信長の幼孫(三法師秀信)を担ぎ出して、そのバックで実権を握りました。
 重臣団も、大王の幼孫ホムダワケ(応神)を担いで、大王遺子たちと武力対決をしたわけです。このとき重臣団はトヨに言ったろう。

「あなたを女王に迎えることはできないが、先王のした約束どおり、あなたの赤子を新たな王として予定したい。あなたも王母として畿内進軍に同行されたい」と。

 こうして重臣団はトヨを担ぎ上げ、またこれが彼女の縁族であろう武内宿禰の台頭をも招きました。
 かくて重臣団+トヨ・武内宿禰が提携、畿内へ東征した史実が、【神功東征】伝のかたちで書かれたと思うのです。さらにそれがダブレット変換され、【天孫降臨】神話も構築されている…。このことは前回で解説しました。

◆武内宿禰「長命」の謎
 僕の見方は、前述のよう、欠史の成務紀を「無」と見なし、かつ仲哀紀を景行(オオタラシヒコ)変死を隠蔽するための「捏造」と見るものです。すると王統譜は「景行-(死後動乱)-応神」となるわけだが、これには面白い利点があります。【武内宿禰・長命の謎】が解けることです。
 武内宿禰は、「景行-成務-仲哀-神功-応神-仁徳」の6王代に渡って重臣であったとされ、『記紀』の年次をマジメに取るなら、約300歳と見積もられる。もちろんありえないことです。
 しかし僕の仮説に沿えば、彼は「景行-(トヨを支えて継承戦争)-応神-仁徳」と3代の重臣であったことになり、矛盾は消えてしまいます。
『記紀』は政治的工作を働かせて、時代の引き延ばしをやってのけたが、武内宿禰の伝承はもとのまま残してしまった。だから彼が異常な長命であったよう見えるのです。

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コメント

 日本の古代史を日本書紀を中心に調べることは楽しいですね、貴殿の見解面白く拝見しています。
 今回の応神天皇の「トヨの子」説について教えて下さい。

 卑弥呼の没年は248年、この時トヨは13歳、応神天皇の即位は日本書紀では270ですから話は合いますが、実際の即位は390年頃とされています。となるとトヨの子としては離れ過ぎます。
 私は、日本書紀と実際の歴史年代との乖離に関心を持っています、昨年一年かけて、このことをブログに発表しました。読んでいただければ幸いです。

投稿 yusaku | 10/18/2007 04:44 午後

yusakuさん、初めまして。
拙文をご覧いただいてありがとうございます。
おっしゃる通り、僕がここで出しているアイディアはほとんど『書紀』に依拠したものです。
僕は研究者でなく「素人」に過ぎないので、「教える」などというのは無理で、むしろ教えを請いたい立場です。

yusakuさんは、卑弥呼の没年、また応神の「実際の」即位年など、確定なさっておられますが、この年代はどのように得られたものなのでしょう?

『魏志倭人伝』では、正始8年(248)帯方郡に王頎が赴任した-という記事に続いて、ヒミコに関する戦乱の記事、またその死を伝えているけれど、これでは248年中にヒミコが没した-とは決定できないよう思います。
また応神の「実際の即位年」については、僕にはどうして得られた年次なのか、わかりません。

貴ブログをいまちょっと拝見させていただきましたが、そのあたりをどのへんに書かれてらっしゃるのかわからないので、当該ページを教えていただければ幸いです。

投稿 弓木 | 10/18/2007 09:50 午後

弓木さん、ご返信有難うございます。
 私も学者でなく、素人の分際です、ただ古代史には関心を持ち雑読の知識しかありません。
 ご質問の一つ卑弥呼の死亡258年頃については日食現象と関連し、多くの方から発表されています。私のブログ2006年3月27日を参照して下さい。
 二つ目の、応神天皇の即位年ですが、日本書紀の年代はこの頃で120年ずれていることは、例えば岩波文庫の「日本書紀」なら 巻二 神功皇后46年のところに注記があります。私のブログでは2006年10月13日参照して下さい。
 残念ながら、何れも中国や朝鮮の歴史が裏付けとなっており、日本独自の歴史年代でないためか、日本の歴史としてはオーソライズされていない様です。
 今後益々独自の見解を発表されることを期待します。

投稿 yusaku | 10/20/2007 04:49 午後

yusakuさんへ。
いろいろご教示ありがとうございます。

まず「日食」については、Wikiの記述を手がかりに、僕も手持ちの天文ソフトDistant Sunsで確認しました。
ソフト上では、AD247年3/24の日食は目立たぬもののようですね。地平の端で1820頃に食が始まり、1824には日没するので、ほとんど食は見えなかったと思います。ピークは地平下の2020頃です。
いっぽう248年9/5の日食は目立つもので、0600日の出時にはもうだいぶ欠けています。0800頃に皆既となり、1100頃に明けるものです。たしかにこの日食は、時の人々に強い印象を与えたでしょう。動乱の折であれば、なおさらだ。
ただ…「日食の年にヒミコが死んだ」という情報はどこにもないので、これをもってヒミコ没年と決定するのは飛躍ではないでしょうか?
また「アマテラスの岩屋籠もり」については、スキタイ系の冬至神話や、パレオ・アジア系の日食神話との重層も考えられ、単に特定の「日食解釈」とすることはできないと思うのですが…。
この神話「重層」の問題に関しては、ウチの過去記事「日本神話Ⅱ」で書いているので、ご覧ください。
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/2007/09/post_74ac.html

あと応神の即位年についてですが。
『記紀』が干支を合わせたまま年次を下げていると見なして、その記載年代を干支の一回り(60年)または二回り(120年)繰り上げる見方があることは、僕も承知しています。
ただこれも、そもそも『記紀』上代の「王統譜」じたいが正確であるのかどうかを、まず問題にしなければならないでしょう。
もし王統譜が不正確なら、それを繰り上げても「史実」が得られるはずはない。
僕は、このⅣで書いたように、「雄略」以前については王統譜の実体じたいが明らかでなかったと考えます。文字記録がなく、伝説のみで記憶が伝えられたので、目立つ「史劇」だけが語り継がれて、それ以外は忘却の闇に沈んだ…と思うわけです。そしてその目立つ「史劇」とは、景行-神功-応神代の「建国叙事詩」であったろう。
はるかのちに不比等らは、忘却された空白期を埋めるために、この「叙事詩」を分解して上代史を構築した-と考えます。
たとえば「神武東征」には「神功東征」との重複が多く見られ、「崇神紀」「垂仁紀」にも後代(とくに応神代)の伝承を繰り込んだらしい部分をたくさん見いだせます。
このことは、いずれ詳しく書くつもりです。

投稿 弓木 | 10/20/2007 11:31 午後

弓木様
 再三のコメントお許し下さい。
 卑弥呼の死亡年については、電子百科ウィキペディアで「卑弥呼」を検索すれば、面白い記事があり、参考になると思います。
 私は、日本古代史と日本書紀の記述の関連を、仲哀天皇迄が黒、神功皇后から雄略天皇までが灰色、それ以降が白と考えています、現在の歴史書では更に推古天皇以降が確定とされている様ですね。貴兄の雄略天皇以降がほぼ正しいには同意します、この頃になって日本書紀の年号と西暦年と合致しますね。
 現在奈良の石上神宮に祀られている「七枝刀」が372年に百済から贈られた物とすれば、日本書紀の記述は年数を120年遅らせば合致します。この差は日本書紀の作成時、日本の国の歴史が永かったことを強調するため考えたのでしょうね、従って私はこの時代を半信半疑の灰色とみています。
 勝手なことを書きましたが、楽しく意見交換が出来そうなので、宜しくお願いします。
 

投稿 yusaku | 10/22/2007 05:32 午後

yusakuさんへ。
じつは僕もWikiをしょっちゅう見て、何かと重宝しています。

僕は、たびたび書いているよう、不比等らには上代の王統譜じたいがよくわからなくなっていたと考えます。臆測して言うならば、以下のようです。

●欽明朝以後-史官によって整備された文書記録が残っていた。
●欽明~雄略の間-簡単な系図くらいは残っていた。
●雄略~履中の間-断片記録+あいまいな伝承+中国史書の知識をつぎはぎして「五王伝」が構成された。
●仁徳・応神-主に古墳伝説から「偉大な2王」伝を組み立てた。
●応神・神功~景行-人々に語り継がれていた「建国叙事詩」を分解・変造して組み立てた。
●垂仁・崇神-「建国叙事詩」の応神朝パーツを流用して、「初期王朝」のあいまいな記憶と合成した。
●神武-「建国叙事詩」の神功東征パーツらを流用して捏造した。
●神代-「建国叙事詩」の構造を流用して、神話として書き換えた。

これが僕の見方ですが、どうでしょうか?

投稿 弓木 | 10/22/2007 11:15 午後

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