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10/12/2007

分解された「景行」伝承-書紀解論(三)

 ここからは、★解論(二)で提示した仮説に沿って話をします。

◆オオタラシヒコ残像と「大国主」
 僕の仮説では、オオタラシヒコ大王(景行)の事績をきわめて重く見ています。彼以前、ナラ王権は単なる畿内の地域勢力に過ぎなかった。それが彼の代になり、東国(越-美濃-東海)から西国(出雲-吉備-九州)までを征圧して、「日本の原型」が造られたと思うのです。
 そこで、さらに推測すれば、【大国主】とはもともとオオタラシヒコの称号ではなかったか…と僕は思う。「諸国の大征服者」であった彼は、そう呼ばれるのがふさわしい。

◆ナラ王権の古層信仰
 もともとナラ支配層は、おそらく「伽耶→出雲→畿内」と流入した集団です。オオタラシヒコの時代(3C半ば)まで遡ると、彼らの持っていた信仰には、次の三つが考えられます。

(a)伽耶系の祖神であるタカミムスビ&カミムスビ
(b)伽耶から出雲への初期征服者である太祖スサノオ
(c)出雲また畿内の国土霊であるオオナムチ(=大物主・大国魂)

 このうち(a)は、アマテラスより古層の「司令神」だったとして、ひろく公認されてるものです。父神タカミムスビと母神カミムスビは夫婦であり、国産み夫婦の「イザナギ&イザナミ」、『常陸国風土記』に見える「カミルギ&カミルミ」、さらには韓国民俗の「天下大将軍&地下女将軍」とも同じ型に属している。たぶんこれらは、みな同じ元型からの派生でしょう。
 つぎに(b)。スサノオに「半島色」が強いのは、これも周知の事実です。なにしろ『書紀』は、スサノオがはじめ新羅のソフル(=都)に降臨し、そこから舟で出雲へ渡ってきた-と記している。
 スサノオは「韓のクニには金銀がある」と言ったとされ、これは『倭人伝』が弁辰の金属文化を伝えていることに対応します。またスサノオは「韓サビの剣」で大蛇を斬ったとされ、その大蛇から「天叢雲剣」を得たという。このことは彼が「金属武器をもつ征服者」であったことの現れです。
 出雲は「八千矛の国」といわれ、多数の銅剣・銅鐸が出土しており、さらにタタラ製鉄でも知られていました。つまりはこうした金属文化が、「出雲→畿内」征服者たちの原動力であったわけです。
 最後に(c)だが、これはもともとは非-人格的な「土地の霊」であったでしょう。オオナムチという名前の語感は、いかにも上代日本語らしい。いっぽう「大国主」はコトバとして新しすぎ、上代の神名とは思えません。地霊オオナムチが出雲大神「大国主」に変貌した理由は何であるか?
 ここにはオオタラシヒコ大王やその子の政治的運命が反映している-というのが、僕の見方です。

◆オオタラシヒコ伝承の分解・変換
 では「オオタラシヒコ伝承」に焦点を絞りましょう。
 ヤマトタケル伝説は、オオタラシヒコ大征服の象徴(ないし隠蔽)として創られたと見なしえます。
 また伝承を欠く成務=ワカタラシヒコの王代は、存在しなかったと見なすべきです。
 そうすると、大きな問題を含むオオタラシヒコの「九州遠征」と、仲哀=タラシナカツヒコの「九州遠征+変死」は、じかに接続してしまいますね。そこで後者は、なんとオオタラシヒコ晩年の記を分離したものと見なせるわけです。
 これを整理すると、以下のようです。

1)オオタラシヒコの大征服と悲劇死は【ヤマトタケル伝説】へ昇華された。
2)またその死は【仲哀変死】として別記された。オオタラシヒコの望んで果たせなかった南韓進出も、【新羅征伐】に反転された。
3)またその大征服者(=大国主)としての残像は、(c)と混合され【オオクニヌシ神話】を構成した。
4)武内宿禰によって破られたオオタラシヒコ2子の像も、【タケミカヅチに屈したオオクニヌシ2子】の伝説へ置き換わった。

 だいたい体制の「建設者」は、その後の「継承者」たちよりはるか強烈な記憶を人々に残すものです。たとえば徳川家康ひとりのイメージは、のちの徳川14代全員を合わせたより重く大きい。
 同じように、オオタラシヒコの印象も、「上代」列王の間では突出して強烈であったと考えます。おそらく彼は抜きん出て豊富な伝説を残したろう。
 ただしオオタラシヒコの生涯は、家康よりはむしろ豊臣秀吉に似ているようです。多くの勝利、多くの妻たち、そして南韓戦争に関わっての破綻の最期…。
 秀吉ファンの中には、「彼が天下統一のところで死んでれば格好良く終われたのに」と残念がる声があります。『記紀』制作者たちも、おそらくオオタラシヒコについて似たことを思ったのでしょう。彼については豊富な伝承が残っていたが、その最期は、悲しく暗い。
 のみならず、おそらくオオタラシヒコ大王死後の動乱には、『書紀』制作者たちがどうしても隠したい事柄がいくつもあったと推定します。武内宿禰の暗躍や、王統の混乱です。
 そこで『書紀』制作者たちは、大王伝承から英雄記(ヤマトタケル)を抽出し、また悲惨な最期(仲哀)をも切り離した。さらに工作を隠蔽するため、その間に非在の「成務伝」を挿んだのです。

 ただし彼らの工作は、ある重要な部分でほころびを見せています。それが武内宿禰に関する伝承です。この点は、後述します。

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