仁徳クーデターと【原伝承P】-書紀解論(二十六)
この回は、前回で書き残したことの補説です。
◆仁徳が「儒教王」のわけはない
まずオオサザキ(仁徳)に関しては、注意しておくことがあります。『書紀』は彼を「儒教仁君」と性格づけ、まさしく「仁・徳」と名づけているが、これは全く虚構であろう-ということです。
古代(僕の推算ではAD300頃)の日本人が、中国儒教の倫理によって行動したなど、まったくバカげた話だからです。
実際にはオオサザキは、先王ウジノワキイラツコ(宇治天皇、応神の子)を殺して王位を奪ったのであり、古代の王権争いじゃ、ごく「ふつう」の行動でした。
しかし『書紀』の制作者らは、王統の混乱じたいを隠蔽しようと図ったので、この箇所を中国儒教ふうの「美談」で偽装したわけです。具体的には、中国伝説の聖王である「尭・舜・兎」の禅譲~仁政エピソードを、改変使用したわけですね。
また見方を変えるなら、この工作は、『書紀』制作者らがつよく中国儒教に染まっていたことを示しています。それは律令制を基礎づける「新時代の規範」であり、具体的には、大陸文化に傾倒していたという天武天皇によって受容されたものでした。
ウジノワキイラツコが王位を譲るため自殺した-という[仁徳紀]の筋書きは、いかにも無茶な「作りすぎ」で、美談を超えてグロテスクです(まるで中国の『二十四孝』を見てるようだ)。
◆「仁徳クーデター」がオチだった【原伝承P】
これまでたびたび述べてきたよう、僕は『書紀』前半部の「隠れた原版」として、【原伝承P】の存在を想定してきました。
察するところ、【原伝承P】の主題は、「X-オオタラシヒコ系」と「Y-ナツシ~トヨ系」という2王統の相克であったはずです。その大枠は次の通り。
Ⅰ)Xの悲劇-西日本を統合した大王オオタラシヒコの密殺と、その3王子たち(ワカタラシヒコ・イオキイリヒコ・オシノワケ)の分裂。そして畿内覇者となったオシノワケ王子の悲劇死。
Ⅱ)Yの悲劇-王子妃トヨの東征と惨敗。彼女は武内宿禰に救われ(利用され)、政権中枢に迎えられたが、最期は「応神朝」の混乱で変死した。
Ⅲ)Xの復活-「応神朝」の崩壊により、東国に逐われていたイオキイリヒコ孫=オオサザキが決起して、政権を奪い取った。これにてX王統が復活し、「叙事詩」はめでたくオチがつく。
◆それは「鎮魂の叙事詩」だった
【原伝承P】が、具体的にどんな性格のものであったか、もう少し突っ込んで想像しましょう。
それは「文字なき口承詩」であり、専門の「語り手」によって謳い継がれ、祭りの場では演じ舞われていたはずです。こうした「口承詩」のあり様を考えるには、たとえば以下のようなものがよい例です。
●アイヌの神謡「カムイユーカラ」。
●シベリア少数民族の口承詩-たとえばツングース族の英雄譚。
●古代ギリシアの『ホメロス叙事詩』。
●スキタイ系オセット族の『ナルト叙事詩』。
●朝鮮半島の鎮魂(鎮恨)歌謡「パンソリ」。
●中世日本の『平家』語りや『太平記』語り。
仮に日本の古代人が、中世人と似た感性を持っていた-と想像するなら、哀切な『平家』語りと同様に、【原伝承P】も悲劇詩であったでしょう。つまり「Xの悲劇」と「Yの悲劇」が、全編の中軸であったはずだ。それは「歴史」でも「娯楽」でもなく、宗教的な鎮魂(鎮恨)詩として物語られたに違いない。
その鎮魂叙事詩=【原伝承P】から、どのように『書紀』前半が組み立てられたか? 次回は「まとめ」的にそのことを考えます。
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