『風土記』ノート①-書紀解論(四十一)
このシリーズで僕が用いてきた史料は、『書紀』『古事記』『風土記』それに『魏志東夷伝』の4書にほぼ尽きます。4書とも、日本古代史のいちばん基礎の文献です。
『書紀』は矛盾や不整合に充ちているが、まさしくそうであるために、ツギハギ工作を逆にたどって、元の素材に還元しやすい性質を持っています。それこそ『書紀』の史料価値です。
『古事記』は、『書紀』の異版の一つとして読むことができ、『書紀』と比較する場合にのみ、史料として意味を持ちます(『古事記』だけでは、単なるコドモの読み物にしかならない)。
いっぽう『風土記』は、中央が操作を諦めた史料であり、その価値は『書紀』と並んで第一級です。これは前にも書きました。
もっとも『風土記』の内容には、これまで少ししか触れることができなかった。そこでこれから、同書の注目記事の一部を、ざっと抽出してゆきます。
まず1回目は、僕が『書紀』の原版と想定した【原伝承P】を裏書きする記事たちです。
以下の多くは、従来「意味不明」とされてきた記事であるが、僕の仮説を適用すれば、意味が「読める」ものになります。
◆オオタラシヒコ(景行)の九州遠征
【肥前国・彼杵郡】-景行の九州遠征時、ハヤキツヒメが投降し、彼女の「弟」タケツミマを密告した。タケツミマは追い詰められて、景行に降伏し、神宝(2種の玉)を献上した。
★景行に降った北九州の2王の記。ハヤキツヒメ=女王・神夏礒媛であり、タケツミマ=ミヌ王・猿大海である。タケツミマとは「猛き水沼」で、水沼の主=ミヌ国王と同じこと。
【筑前・逸文】-宗像大神の神体は、「奥津宮=アオニの玉・中津宮=ヤサカニの玉・辺津宮=ヤタの鏡」である。
★北九州王族の3神器(2玉と1鏡)を伝えている。前項とあわせて見れば、この神器が景行に奪われたことがわかる。
【播磨国・託賀郡・黒田】-オキツシマヒメが伊和大神の子を孕んだ。
★トヨ(=イチキシマヒメ)が王孫を身籠もった史実の反映。伊和大神は、出雲-ナラ系王族の象徴。
◆トヨと武内宿禰の東征
【播磨国・飾磨郡・美濃】-筑紫国・火の君の祖が来て、「死んだ女」を生き返らせ、彼女と結婚した。
★「死んだ女=惨敗したトヨ」である。「火の君の祖=武内宿禰」が戦況をひっくり返して、「死に態」のトヨを救った。当地を「美濃」と称するのも、武内宿禰=ミヌ王族と関わるか?
【播磨国・飾磨郡・都麻】-サヌキヒコがヒガミトメに結婚を強要した。ヒガミトメは厭がって、タケイワ命に援けを求めた。タケイワ命は、サヌキヒコをさんざんに打ち破った。
★ヒガミトメ=トヨ、タケイワ命=武内宿禰、サヌキヒコ=ナラ王族であろう。ナラ王族の渡来ルートの一つが讃岐→播磨であったことは、同書に多く見えている。
【播磨国・飾磨郡・安相】-ホムダ天皇が但馬から来たとき、「豊忍別命」が名を剥がれ、但馬国造は失脚しかけた。
★これはトヨ&武内宿禰の東征戦において、オシノワケが謀殺されたことの関連記事。
【越前・逸文】-気比明神は「宇佐八幡と同じ」。また「宇佐八幡=応神」であり、「気比の明神=仲哀」であるという。
★宇佐八幡=気比明神=ホムダワケである。ホムダワケ(トヨの子)はおそらく東征戦のなかで戦死し、イザサワケ(武内宿禰の子)がすり替わっている。だからホムダワケ=死んだ王=仲哀の等式も成り立つわけ。
◆仁徳クーデター
【播磨国・飾磨郡・飾磨】-仁徳代に、山陰5国の国造が一斉逮捕され、当地で囚役させられた。
【同国・讃容郡・ミカヅキの原】-仁徳代に、伯耆のカグロと因幡のオホユコの一党が逮捕され、水責めの拷問を受けた。
★どちらも仁徳クーデター後の人事粛清。出雲系勢力を弾圧して、その神器(鏡)を奪ったのである。『垂仁紀』の出雲振根・十千根大連らの記事もこれの異伝。
【因幡・逸文】-仁徳代に、武内宿禰が宇部山で姿を消したという。
★武内宿禰の最期である。隠退ないしは失脚であったろうか?
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