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02/02/2008

未完の『書紀』と派生書『古事記』-書紀解論(三十三)

 前回では、『書紀』のツギハギ大混乱を、例を挙げながら見てきました。またそのツギハギをよく見ると、きれいに素材に分解できることも示しました。
 このことは、『書紀』が、さまざきな原素材を寄せ集めた〈一次加工品〉であることを示しています。
 いっぽう『古事記』は混乱がなく、筋もきれいにまとまっている。そこで『古事記』は、『書紀』を踏み台にまとめられた〈二次加工品〉-と見なせるわけです。
 今回は、この視点から、『書紀』と『古事記』のありようを解いてみます。

◆『書紀』は不比等の未完原稿
『書紀』を一読すれば、その「組み立て」には多くの素材が用いられたことが、明らかです。古伝や歌謡だけでなく、中国史書や朝鮮史書もたびたび明記のうえ引用されてる。
 これらの取材や編集には、大勢の制作スタッフが必要であったはずです。作業チームの「総裁」は舎人親王、「現場監督」は藤原不比等であったと伝わる。
 つまりは、前回見たようなツギハギ工作は、不比等の作業であったわけです。僕は『書紀』を読んでると、「不比等も苦労したんだなあ…」と思いやられる。
 じつは僕も小説を書いてるけど、何度も「直し」を入れてるうちに、ツジツマの合わない断片がいっぱい溜まって、グチャグチャになることがよくあります。なんと『書紀』の前半は、こんな「書きかけ原稿」に恐ろしくよく似ている。
 おそらく不比等は、「ああでもない、こうでもない」と頭を悩ませながら、何枚もの木簡に書き直しをしたのでしょう。
 彼は改稿を重ねながら、ボツ木簡も棄てずに取っていたのだと思います。「いずれきちんと整理するぞ」ってつもりでね。ところがまとめきれないうちに、彼はそのまま死んでしまった。
 そして彼が死んだ時、元正女帝と舎人親王の間では、こんな会話が交わされたんじゃないだろうか。

「ところで不比等が亡くなったけど、『書紀』の原稿はどうなったの?」
「まだできてないんですよ…。ていうか、不比等が書き散らかしたまま死んじまって、後をどうまとめたらいいのか、もう私らには手に負えません」
「しょうがないわね。じゃあ未完成でもいいからとにかく提出しなさい! とにかく国史ってものがなけりゃ困るんだから」

 こうして不比等が苦闘したすえ、未完のままで終わった『書紀』が、ついにはそのまま上梓されたのだ-と思います。はたして『書紀』の上梓年は、不比等の没年と同じ720年です。

◆『古事記』は読みよい創作文学
 いっぽう『古事記』は、まとまりのよい読み物です。『書紀』にあるようなツギハギの痕跡は消されており、特にヤマトタケル伝説など、劇的(というかマンガ的)な脚色も目立っている。
 こうした記述のまとまりは、『古事記』が一人の話者(稗田阿礼)+一人の記者(太安万侶)により、短期に仕上げられたせいだと考えます。
 ここでもう一つ重要なことは、『古事記』の筋書きが『書紀』に近く、『風土記』には遠いことです。このことは、『古事記』が『書紀』からの派生型であることを示している。
 あくまで想像に拠って言うなら、稗田阿礼は、『書紀』スタッフの一員として、不比等の作業に付き合っていたのでしょう。彼女は不比等の構想をよく知っており、それを自由に語り直した。細かいことはカットして、「お話」として面白いように語ったわけです。
 そこで『書紀』と『古事記』の性格を、簡単にまとめると、こうなります。

●先に『書紀』の制作が開始され、多くの素材と大勢のスタッフが集められた。
●その現場スタッフの一部により、派生企画として『古事記』が作られた。
●『古事記』は、一対の話者&記者によって短期間に完成され(上梓は712年)、文学として読みやすく仕上がっている。
●いっぽう正式国史の『書紀』は、不比等がまとめきれないまま死んだために、未完のまま上梓された(720年)。

 次回では、さらに当仮説を補強するため、ヤマトタケル伝説を解読しましょう。

*注1-『日本書紀』は後の通称で、その原題は『日本紀』であったという。
*注2-稗田阿礼には「男性説」もあり、「不比等本人」との説もある。どれでも僕の解釈に支障はない。

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