応神朝の渡来者たちⅡ-書紀解論(三十七)
前回では、『記・紀』に沿って応神朝の渡来者たちを見てきました。
今回はその続論です。
◆渡来神話と「トヨ・武内宿禰」ペア
まずは前回ざっと触れた神話上の渡来ペア-「α姫神アカルヒメ・β王子ツヌガノアラシト」を追うことから入りましょう。
加羅(伽耶)から来日した二人の軌跡を、[垂仁紀]は次のよう記します。
α)筑紫比売島→豊前国前・難波
β)穴門→出雲→敦賀
ところで僕は、すでにオオタラシヒコ死後の〈継承戦争〉について、『書紀』の読みから復元をしてきました。
(参照→〈★十四-神功惨敗!〉また〈★十五-オシクマ王の悲劇〉)。
このとき「α’トヨ・β’武内宿禰」の東征路はこんなだった…。
α’)豊前宇佐→瀬戸内→難波・河内
β’)香椎→出雲→敦賀→山城
α-α’とβ-β’の軌跡が似ているとは思いませんか?
なおα「筑紫ヒメ島」とは、宗像の3女神を祀る沖ノ島か大島でしょう。そしてα’トヨは、おそらく少女時には、その3女神の斎女(=イチキシマヒメ)でした。
またβ「穴門」は、仲哀の葬地とされるが、その密葬はβ’武内宿禰が行った-と[仲哀紀]は記録します。
これらを考え合わせると、ますます2組の軌跡はよく重なる。これは一体どういうことか?
◆「東征戦」の記憶が今に残る
「α’トヨ・β’武内宿禰」の東征記憶は、じつは他にもあちこち現れ、日本神道の「見えざる骨格」となっています。
証拠を示しましょう。表17を見てください。
列挙したのは、みな「古社」で、ほとんどが旧分国の「一ノ宮」です。
トヨの征路上には、彼女の記憶を留める古社が線上に連なります。さらに武内宿禰の征路もそう。『紀』『記』『風土記』それに社伝を重ね合わせると、さながら二人の進軍状況が見えるようだ。
なおトヨら以前に「東征」したとされる神武は、全然こんな痕跡は留めていません。これは「神武の東征」が虚構であり、「トヨの東征」こそが史実であったという、僕の仮説の補強証拠の一つです。
他にも、豊前豊後(トヨの国)・愛媛=イヨ(トヨ国の対岸)・姫路(トヨの東征路)らの地名は、トヨの記憶にちなんでいるものと察せられます。
よく考えれば…これは相当にすごいことです。だって3世紀の建国〈継承戦争〉における記憶が、そのままずうっと歴史を通じて、保存されてきたのだから。その内容は忘れられてしまったのに!
◆なぜ「渡来神話」がトヨたちに重ねられたか?
さて問題は、どうして「α’・β’」の史的記憶に、渡来神話「α・β」が重ねられているのか?…です。
そのわけは、トヨも武内宿禰も「渡来系」であったからだ-と僕は察する。
そうではないと言う人たちは、はたして以下の材料を、どう解釈するでしょうか?
●豊前香春の神は「新羅からの渡来神である」-『風土記・豊前逸文』
●香春社の祭神は、「辛国息長姫&豊姫」である-(同社伝。「辛国」はカラクニと読む)
●伊都県主(北九州豪族)は、「高麗ウルサンに天下ったヒボコの子孫」-『風土記・筑前逸文』
●「ヒボコ系の葛城タカヌカヒメは、息長帯比売=神功の母である」-『古事記・応神記』
続きます。
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